辰巳町(近世~近代)
江戸期~現在の町名新町通七条上ルの町南北に通る新町通をはさむ両側町町名は西本願寺寺内町のうちで巽(東南)の方角にあたることによる(坊目誌)寛永14年洛中絵図・寛文12年洛中洛外大図には「四丁目」,天明6年洛中洛外大図には「新町通四丁目」とあるが,「宝暦町鑑」には「辰巳町」,また延享3年の「寺内歳時記」(村上文治家文書)には「新町四丁目」と「辰巳町」を併用する当町は西本願寺寺内町成立以来の古町の1つで,毎年11月の法事には他町より多く提灯2張分を代銭納していた(寺内歳時記)また地子負担をする地子屋敷町の1つであった(同前)「表処置録」(村上文治家文書)によると,御一派御宝厨子出仏壇師の中屋儀兵衛が居住,文久4年の「ちまたの風聞」によると,御用御数寄屋方の指物師松井太蔵が居住していた当町東側の覚林寺は浄土真宗本願寺派に属し,元禄14年正月僧超玄の開基,「表処置録」には堂達の寺であったという江戸期は西本願寺寺内町の艮組,明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】19番組,同5年第23区と改称,同25年第23学区に編成明治12年下京区辰巳町,同22年京都市下京区辰巳町となり現在に至る世帯数・人口は,明治44年59世帯・236人,大正14年75世帯・321人,昭和40年には82世帯・304人人口増減率(昭和40~50年)24.3%減
| KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7377718 |