椿井村(近世)

江戸期~明治22年の村名。山城国相楽【そうらく】郡のうち。村高は,「正保村高帳」では枝郷北河原村を含めて1,132石余,「元禄郷帳」885石余,「享保村名帳」1,051石余(ただし北河原村分173石余を含む),「天保郷帳」「旧高旧領」は879石余。支配は「元禄村別領主帳」によれば幕府領・東坊城家領・平松家領・難波家領・持明院家領・伏原家領・小川坊城家領。枝村である北河原村を除く当村の村高は享保年間には878石余で,うち746石余が禁裏増御料,残り132石が幕府領玉虫左兵衛代官支配である。「旧高旧領」では,元禁裏御料747石余・元御除料66石余・元京都守護職役知65石余。江戸期の椿井は系図作りの村とされるが,その実態は解明されていない。神社には,月読命を祭神とし,上狛・椿井両村の産土神として信仰を集めた松尾神社のほか,御霊社・弁天社があり,寺院には真宗光明寺,真言宗延命寺,浄土宗阿弥陀寺,臨済宗玉台寺・弘済寺などがある。寛永年間開業の西井堂と文化2年開業の三遷堂という寺子屋があった(日本教育史資料)。明治元年京都府に所属。「府地誌」によると戸数172・人数760,田38町4反余・畑26町4反余で,製茶・甘藷・実綿などを主産とする農業集落であった。同22年高麗村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7378060 |