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東塩小路村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。山城国葛野【かどの】郡のうち。村高は,伝承によれば織豊期は461石余,慶長18年に上地があって239石余となったという(若山用助家文書)。寛永期の239石余は「東塩小路村文書」によって確認され,寛永18年以前は全村幕府領,以後は妙法院を筆頭に寺社領や雑色領に細分割されている。上地はその後もあり,村高は「正保村高帳」では155石余,「元禄郷帳」では属地来迎堂廻りとも179石余,「享保村名帳」では178石余,「天保郷帳」で179石余。「旧高旧領」も同高,ただし来迎堂廻り幕府領小堀数馬支配4斗余は別に掲げる。支配は「元禄村別領主帳」では,来迎堂廻分を含み,幕府領・妙法院門跡領・仏光寺門跡領・若宮八幡社領・建仁寺領・成就院領・迎称寺領・歓喜光寺領・速成就院領・雑色知行地・御庭作文六知行地。「享保村名帳」の領主別内訳は,妙法院宮領111石余・若宮八幡社領6石余・仏光寺領3石余・六条道場(歓喜光寺)領5石余・一条道場(迎称寺)領5石余・建仁寺領3石余・成就院領1石余・太子堂(白毫寺)領1斗余・雑色衆知行地10石・幕府領玉虫左兵衛代官支配31石余。「旧高旧領」では,雑色衆知行地が五十嵐・松尾・荻野・松村の4氏に分割され,幕府領小堀数馬支配が32石余になったほかは変わらず。当村集落の東方および南方は豊臣秀吉の築造になる御土居に囲まれ,集落の中央を南北に貫く東洞院通はこの御土居を切り開いて竹田から伏見へと至る竹田街道となっており,牛車のための車道も付され,交通の要衝であった。この竹田口とよばれる御土居外際には洛中通行荷馬口取りの標柱がたてられていた(東塩小路村文書)。御土居内のいわゆる洛中農村で市街地に接していたために,江戸初期から,所司代その他の御用人足や二条城水鳥餌籾の供出など,京郊農村としての特殊な負担が課せられ,中堂寺・壬生・西京・西九条村などとともに利害を1つにする近郊村として村組を結んでいた。当村の寛永16年の人数は男129・女143,家数は寺ともに41(正行院文書)。嘉永6年には当村内の町場である西洞院通の片原町分が人数87・家数17で,本村分は人数208・家数40となっている(同前)。幕末期には洛中市街に収容しきれない上洛武士に,村内の正行院や有力農民の家が下宿として強制的に借用されるなど,京都と同様の運命をたどり,慶応3年には「ええじゃないか」も体験した(要助日記)。明治元年京都府に所属。同5年の戸数47(市町村合併史)。同3年の物産届書によると,芋・藍・葱・胡蘿蔔・大根・蕪・水菜・茄子・蒲瓜・薑などの蔬菜が多い(若山用助家文書)。同4年,鉄道敷設用地見分のため外国人技師らが来村して大騒動となった(同前)。同10年,当村内に七条ステンショ(京都駅)が設置され,翌11年村内を線路が東西に貫通し,正行院などは線路によって庫裏と本堂が分離された。同12年,一部が下京【しもぎよう】区東塩小路町となる。同21年の戸数13(市町村合併史)。同22年大内村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7379293