宮津(近世)

江戸期~明治22年の町名。与謝【よさ】郡のうち。宮津藩の城下町。細川藤孝・忠興父子,惟任(明智)光秀らに丹後国を平定させた織田信長は,天正8年丹後を細川藤孝・忠興に与えた。8月細川氏は宮津に入城。直ちに浜の新城の築造にかかった。同時に宮津城下町の建設が行われたことは,慶長7年宮津下村検地帳(筑波大学所蔵)に「大くほ」「かちや町」「池ノ谷」「杉末」「魚屋町」「柳町」など近世城下町名が載っていることからみても明らかである(宮津城発掘調査概要)。細川氏が慶長5年豊前国中津に転封された後,京極高知が12万3,200石余を領したが,元和8年に丹後国を宮津・田辺・峰山に分け3人に分知し,京極高広が宮津7万8,200石を襲封した。城下町の本格的な建設は同9年から高広によって着手され,下宮津郷の鍛冶・猟師の2か村を敷地に充当し,寛永2年には宮津川(大手川)を外濠の一部に利用して,その以東に城郭の大部分が完成した。同13年までには宮津川以東に家中屋敷,以西に家中屋敷と町屋が配置されて町割が完成した。城下町建設にあたっては,拝領高下宮津郷1,952石余のうち城郭敷地156石余,武家屋敷地および御用地300石余,町地子地218石余,計675石余が充てられた。同20年町地子米10町4反余・128石余が免除された。町人地は本町・魚屋町・万【よろず】町・職人町・白柏【しらかせ】町・川向町の6町を中心に町組を構成していた。本庄(松平)氏の時代には1町組に町名主1名,そのもとにそれぞれ10人余の組頭が設置され,町触れの伝達などが行われた。元禄16年の御城下絵図によれば,本町組の下に本町・波路町,魚屋町組の下に魚屋町・東堀川・西堀川・小川町,万町組の下に万町・金屋谷,職人町組の下に職人町・紺屋町・田町・松原町・大久保町・木ノ辺町,白柏町組の下に白柏町・河原町・吹屋谷・池ノ谷・葛屋町・如願寺下・山王下,川向町組の下に川向町・漁師町・杉ノ末町・小浜の町が属していた。町人地の家数は,寛文6年1,817軒,ほかに借屋636軒,元禄16年1,169軒,寛保4年1,193軒,ほかに店借630軒,人数7,193,宝暦年間1,300軒余,ほかに小屋500軒余,人数6,700余,享和3年は1,917軒で人数7,231であった(宮津旧記・丹後宮津志)。ほかに武家人口を約3,000人とすれば,当城下は1万人程度の人口であったと想定できる。ちなみに廃藩当時の版籍調書によれば,戸数は藩士833戸を含めて2,616戸,人口は藩士とその家族3,346人を含めて9,606人であった(与謝郡誌)。18世紀になると商業・工業面でも様々な業種が出現し,享和3年には町医師26人・外科医師2人・針医師2人・目医師3人のほか,紺屋156軒・酒屋57軒・大工15軒・木挽38人・屋根屋18軒・鍛冶屋32軒となっている(丹後宮津志)。また宮津城下町は山陰の良港を控え,北前船が寄港するほどの港町として繁栄した。文化年間より藩が遊廓を許可し,俗謡に「二度と行くまい丹後の宮津,縞の財布がからになる」と歌われるほどであった。明治4年宮津県,豊岡県を経て,同9年京都府に所属。明治初年には,城郭跡および旧武家屋敷地に数か町が起立し,これに江戸期以来の城下町を加えて,当町は柳縄手・京街道・大久保・木ノ辺町・京口・京口町・松原町・島崎町・鶴賀町・外側・馬場先・中ノ丁・吉原・安智・波路町・波路・本町・魚屋町・万町・宮本町・東新浜・小川町・金屋谷・白柏町・杉ノ末町・河原町・住吉町・漁師町・蛭子【えびす】町・万年町・万年新地・宮町・池ノ谷・川向町の34か町を数えた。明治21年の戸数2,057(市町村合併史)。同22年市制町村制施行により宮津町が成立。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7380297 |





