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芥河(中世)


 南北朝期から見える地名。島上郡のうち。芥川・芥田河などとも書く。建武3年9月日の諏訪部信恵軍忠状(三刀屋文書/高槻市史3)に「去七月九日,侍所自山崎・芥河発向」とあるのが初見であるが,年月日未詳の興福寺金堂荘之免田等目録帳(天理図書館所蔵/尼崎市史4)には「芥河庄〈三十六丁 三石六斗〉」と見え,当地には興福寺領の荘園が存在したものと思われるが,詳細は不明。当地にはまた芥川城があり,「言継卿記」天文2年9月5日条に「沢路隼人佐摂州芥川へ」とあり,8日条に「沢路隼人佐従芥川上洛,細川六郎遵行到」とあるように,天文2年2月に一向一揆の攻勢に淡路島に脱出した細川晴元が4月に池田城に入城し,次いで芥川城に入り,天文5年9月に入京し,正式に管領となるまで在城し,政務を行った。また当地を本拠とした芥河氏がいた。鎌倉末期の延慶2年5月27日の六波羅下知状案(東寺百合文書/吹田市史5)に,豊島【てしま】郡垂水荘へ御家人芥河孫三郎六郎左衛門尉・土室式部大夫以下が乱入しているが,この芥河氏は同所に所領をもっていた御家人と考えられる。南北朝期には芥河氏は自ら中心となって北摂国人一揆を結んだりするなどの動きを示し,細川氏の被官などとして見える。内蔵寮の支配に属した関所である率分所があり,「言継卿記」天文13年4月23日条には「摂津国上郡率分,従去天文十年薬師寺与一違乱」と見える。一時この違乱も止まり再興するが,天文末年以降停廃したものと思われる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7381033