江口(中世)

鎌倉期~戦国期に見える地名。西成郡のうち。古代からの要津であり遊興の地であったが,室町期には江口荘・江口郷,戦国期には江口村などとも見える。「明月記」建仁元年3月21日条に「未時許出御釣殿,江口・神崎各五人被召立……被合今様各一首」とあるのが初見。これら遊女は前日の石清水臨時祭礼に招かれ,白拍子舞を舞ったこともうかがえる。また同記寛喜元年5月23日条に「一昨日方違水田〈有小屋〉江口遊女群参」とあり,藤原定家が吹田の別業に方違した際,当地の遊女が群参したことも見える。また「新古今集」には,天王寺詣の帰途,雨に降りこめられた西行が,宿を借りんがために歌いかけたのに対して「よを厭ふ人としきけばかりの屋に 心とむなと思ふばかりぞ」と返した遊女の返歌が載せられており,江口の遊女たちは当意即妙に返歌できる教養を備えていた。なお「太平記」によると,幕府軍の千早城攻めの際の無為を示す一例に「諸大将ノ陣々ニ,江口・神崎ノ傾城共ヲ呼寄テ,様々ノ遊ヲゾヤラレケル」とあるが(古典大系),当地の遊女らが南河内まで赴いていることが見える。また当地は要津であったので関所が設置されていた。応安元年閏6月12日の管領細川頼之施行状(秋元興朝所蔵文書/大日料6-29)に「安威左衛門入道性威申摂津国江口五ケ庄〈付下司公文等跡〉事……所詮赤松弾正少弼氏範為中島内之由雖支申……争宛本所領之由可加了見哉,就中当庄依為新関之在所,可被地頭之旨,被経奏聞之後,被宛行性威訖」とあり,中島に属さない江口五か荘が存在し,その下司・公文跡に安威性威(資脩)が補任されたが,赤松氏範は同地が中島の内と称して押領せんとしたため,幕府は氏範の押領を停めるよう守護赤松光範に命じている。ここで江口五か荘には新関が置かれていたことがわかるが,この関はあくまで新関であり,後述の住吉社日供料関はこれ以前に設置されていたことになる。この後も氏範の江口五か荘への濫妨は止まなかったが,応安5年5月15日に幕府は安威詮有に江口五か荘を交付した(関戸守彦所蔵文書/大日料6-35)。ただし,江口五か荘についてはこの2通の文書しかなく,詳細は不明。永享3年4月2日の幕府奉行人連署奉書写(室町幕府引付史料集成上)には「住吉社日供料所摂津国江口関所代官職〈孫左衛門尉家次分〉事,可令補任清寥庵之旨,被仰社家訖」とあり,当地には住吉社日供料に宛てる関所のことが見える。また「親元日記」寛正6年正月29日の中島中新関を停廃すべき諸関注文に「六,江口荘〈天王寺領〉〈此外〉本関……一,〈同御供関〉江口荘」と見え(続大成),本関である住吉社日供料関のほか,天王寺も江口荘を領有し,関所を設置している。江口本関の代官職はその後飯尾元連の手に移り,享徳4年2月22日に安堵された(古蹟文徴/増訂加能古文書)。しかし文明17年12月23日の幕府奉行人奉書(飯尾文書/大日料8-17)によると守護被官長塩弥四郎が「掠給奉書,違乱」するので,幕府は翌年5月13日,守護細川政元を通じて違乱を退けさせ,元連に同職を安堵している(同前)。なお江口の領主としては,このほか文安4年6月6日の摂津守護細川持賢寄進状および嘉吉3年5月7日の管領細川家奉行人奉書(藻井泰忠所蔵文書/吹田市史4)によれば,江口内柳島は無主の地であったので寄進され,崇禅寺領となっている。また戦国期には当地は戦場にもなっている。「陰徳太平記」に「摂州中島榎並三宅城没落並江口合戦事」と見える。これは天文18年6月,細川氏綱の擁立をはかる三好長慶と細川政元との争いで,三好方の江口城は陥落している(細川両家記)。この時の江口について「万松院殿穴太記」は「此江口と申は四方に大河渺々として沙頭みちせばきに,波うち際迄逆茂木を引かけたれば,容易く敵も寄せ難し」と記している。戦乱時には当地の住人も動員され,例えば元亀元年9月の摂津江口村船頭宛判物写(摂津名所図会所収/織田信長文書の研究上)に「渡舟之儀,昼夜令馳走之条,当村之事,乱妨・狼藉一切非分除之,若猥儀在之ハ,可成敗之状如件」と見え,浅井・朝倉両軍の山城進攻の急報に接し,帰京する信長は江口の船頭衆の昼夜にわたる渡船援助を受けている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7381685 |