上条郷(中世)

鎌倉期~南北朝期に見える郷名和泉国大鳥郡大鳥荘のうち初見は筆師澄覚により書写された「広弘明集」の奥書で,嘉禎3年2月4日の日付があり,「和泉国□□(大鳥カ)郡上条郷豊中村書了」と見える(河内長野市史5)ついで文永5年12月26日の関東下知状(田代文書)には,信聖阿闍梨の死去により,田代道氏が「和泉国大鳥郷内上条村地頭職」を伝領することが記されている乾元元年12月23日には,田代基綱が亡父家綱から譲られた「大鳥郷上条村〈姫夜叉分除之〉」の地頭職を幕府から安堵されている(同前)いずれも幕府の下知状に見えるもので,永仁5年9月23日の娘宛の田代家綱譲状(同前)には,「大鳥郷上条内一分地頭職」とあるように単に「上条」とのみ記されている場合が多い観応元年9月日の田代顕綱言上状案(同前)のうちでも,事書には「大鳥庄上条村地頭職」と見えるが,他の所では「大鳥庄上条地頭職」とあるなお年月日未詳の「大鳥庄上条村相伝之次第」によれば,清綱から通氏,家綱,基綱さらに顕綱へと伝えられたことがわかる(同前)その後応永34年12月2日の波多野某寄進状案(田代文書)には,「大鳥庄之内上条郷地頭職田代方知行内七段」と見え,本寄進状紛失により,改めてこれが海会寺に寄進されているこれによれば,海会寺はこれ以前から当郷のうちに7反の寺領をもっていたことがわかる現在の堺市鳳中町・鳳東町・鳳南町・鳳西町を中心とするあたりに比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7382327 |