雁多尾畑村(近世)

江戸期~明治22年の村名。河内国大県【おおがた】郡のうち。単に「畑村」ともいう。文禄3年12月2日の豊臣秀吉知行宛行朱印状には「河内国大方郡畑村」と見え,竹中重則に当村など計1,000石を宛行っている(竹中文書/岐阜県史1)。はじめ幕府領,のち(年次不詳)旗本竹中氏知行および幕府領,元禄年間以降旗本竹中氏知行。村高は,慶長12年1,364石余(森田家文書/柏原町史),河内国輯録で1,301石余(幕府領667石余・旗本竹中氏知行634石),元禄10年(安田家文書/柏原市史)および「天保郷帳」ともに633石余,「旧高旧領」では北畑村・南畑村を合わせて1,397石余。元禄年間からの村高の減少は北畑村・南畑村を分村させたためと考えられる。家数は正保2年55軒(ほかに枝郷峠10軒),元禄10年115軒(安田家文書/柏原市史)。「五畿内志」には「属邑三」とあるが,これは北畑村・南畑村・枝郷峠のことと考えられる。また,ゴボウの名産地と記される。寛文13年,門徒は大坂光徳寺に対して寺法を守ることを誓約している(光徳寺文書/同前)。延宝9年の雁多尾畑村寺社改(乾家文書/同前)によれば,氏神山王権現(金山姫神社)の宮座があり,年老2人が神主役を勤めたことがわかる。鎮守は式内社の金山姫神社で,青谷の金山彦神社と対になっており,ともに鉱産冶金の神と考えられる。寺院に浄土真宗大派光徳寺・真福寺(もと新副寺)がある。文政13年の人数395(宗門人別御請印形帳/同前)。明治2年,北畑村・南畑村を合併。明治9年の人口1,119。同14年大阪府に所属。同22年堅上【かたかみ】村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7382429 |





