金田村(近世)

江戸期~明治22年の村名。河内国茨田【まつた】郡のうち。寛永10年山城淀藩永井氏領,万治元年からは旗本永井氏知行。村高は,河内国輯録では376石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに変わらず。「五畿内志」に見える「属邑一」とは村内宮垣内の地を指すと考えられる。江戸末期の年貢率は6割7分であった(守口市史2)。元文5年の人数193,うち男90・女103,文久3年の家数43軒,うち高持23軒・無高20軒(守口市史3)。鎮守は式内社津島部神社。寺院は曹洞宗興聖寺末金竜寺・浄土真宗本派浄宗寺。明治9年の人口275。同14年大阪府に所属。同22年庭窪村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7382779 |