高津町(近代)

①明治5年~現在の町名。1~10番丁がある。はじめ大阪南大組,明治12年南区,同22年からは大阪市南区の町名。もとは南大組西高津新地1~9丁目を中心に西高津町・高津五右衛門町・道頓堀立慶町の各一部を町域とし,明治6年に西高津村の一部を編入(全志2)。高津入堀川は高津町5番丁で南端が堀止めになって水が流れず不衛生なので,さらに南へ運河を開き,天王寺字水田から西折して鼬川・難波新川と連結する工事を明治29年開始し,同31年完成した。しかし第2次大戦後焼土処理のためと舟運の減退により,昭和38年高津入堀川は埋め立てられた。日本橋の1つ東の筋,高津町9番丁に黒門市場がある。黒門の名称は円明寺の黒塗り門に由来するという説が有力だが,寺の起源については明らかでない。「摂陽奇観」に文政ごろから日本橋付近での鮮魚売買の様子が書かれているが,市場として開設されたのは明治35年,現在のように有名になったのは戦後である(道頓堀川その7/大阪人35巻8号)。昭和18年一部が天王寺区高津町1番丁・浪速【なにわ】区高津町5番丁となる。同55年の人口は男2,309・女3,153。同57年一部が高津1丁目となる。②昭和18年~現在の天王寺区の町名。1番丁がある。③昭和18~37年の浪速区の町名。5番丁がある。昭和37年日本橋東3~5丁目・下寺町2~4丁目となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7383024 |