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堺町(近世)


 江戸期~明治12年の町名。摂津国住吉郡・和泉国大鳥郡のうち。はじめ北本郷・南本郷・北端郷・南端郷から成っていたが,元禄6年からは北組・南組に分かれた。大坂夏の陣によって堺の町は焦土と化したが,直ちに幕府は復興に着手した。元和元年,堺に隣接する北庄村のうち477石余,中筋村のうち304石余,舳松村のうち330石余,湊村のうち90石余,計1,201石余・反別63町歩余の地を市街地に編入した。そして東・北・南の三方に濠をめぐらし,農村地域と市街地の境界とした。しかし,堺町と村々のつながりは密接で,北庄・中筋・舳松を堺廻り3か村,湊村を加え堺廻り4か村として,堺奉行の与力・同心扶持米ほか諸経費を負担させた。また我孫子村をはじめとする12か村の村々を堺付と称し,堺町の後背地域として年貢を堺渡しとするなど,同様に密接な関係を持った。一方,市街地内部においては,摂津国と和泉国の境に大小路通を置き,大小路通と直角に大道筋を交差させた。この2つの線を幹線道路とし,それぞれに並行して道路を開いた。これによって市街は東西南北の町筋が交わり,長方形の町々に区画された。東の濠に沿って北庄村・中筋村・舳松村の堺廻り3か村の農民たちを居住させ農人町を形成,農人町の西には寺院を集中し寺院街を形成し,寺町とも称した。以上の町割りを元和の町割りという。江戸初期,堺の町は北本郷・南本郷・北端郷・南端郷の4辻に分かれており,町数は179町を数えた。元禄6年端郷の称を廃し,大小路を境に北組・南組に分けた。南北に通じる大道筋と並行して,大道から東へ1筋目を東六間筋,2筋目を山口筋,3筋目を十間筋と称し,寺町と惣堀との間を農人町筋と称した。同じく西へ1筋目を西六間筋,2筋目を中浜筋,3筋目を浜六間筋(下六間筋),4筋目を大浜筋と称し,5筋目以西の新川端までを浜筋とも総称した。なお大浜筋は浜筋のうちに含めることもある。また大道筋・山口筋・東筋・農人町筋・中浜筋・浜筋の各筋ごとに組合が持たれた。道幅は大小路通5間,大道筋4.5間。その他東西の筋は幅3間,南北筋は大道筋を中心に東西へ各2間・3間・2間と交互にし3間幅の道筋を表筋,2間幅の道を裏筋と称した。これらを原則としたが,寺町筋は5間というように多少の例外はある。町の幅は南北60間を基本としたが,南半町は38.5間,北半町は18.5間であった。寛政11年の大道筋の町名は,北半町・北旅籠町・桜之町・綾之町・錦之町・柳之町・九間【くけん】町・神明町・宿屋町・北材木町・車之町・櫛屋町・戎之【えびすの】町・湯屋町(以上北組),市之町・甲斐町・大町・宿院町・南中之町・寺地町・少林寺町・新在家町・南旅籠町・南半町(以上南組)の24町で,大道筋の綾之町以北は北へ折れている。堺町は寛永11年から地子銀免除。寛文8年戎島を編入。当町は堺奉行の支配下にあったが,元禄9年堺奉行は廃止され,同15年に復活した。奉行所は車之町東方の殿馬場にあり,同心屋敷も同所に置かれていた。南・北両組の自治機関は総年寄10人,総代・職事各6人からなっていた。産物は鉄砲・茶具・包丁などで,桜之町辺りには鉄砲鍛冶職人が集住していた。家数・人数は,寛文5年1万8,622軒・6万9,368人,天和元年5万9,591人,元禄8年6万3,706人,宝永6年1万9,395軒・5万5,461人,享保16年1万6,617軒・5万2,446人,天保11年3万8,126人,安政6年3万7,153人。寛政11年の家数6,877軒,家役数8,124役余。紺屋町浜・柳之町浜には魚市場があり,高札場は北之橋南詰・南之橋北詰・大小路橋・紺屋町浜・戎橋に置かれていた。元来,堺は港湾都市としての機能を有していたが,新大和川の開削により土砂が流れ込む所となり,港としての機能は衰えていった。その後寛政7年には堺港の修築に伴い新地と呼ばれた地域が発展し,天保5年には町名も定められ,竜神橋通1~2丁目・堀留町・夕栄町などが新たに起立した。寛政11年の石銀家数寄帳では南北両組合計で178町が見える。明治元年2月,いわゆる堺事件が起こり,堺警備の土佐藩士とフランス軍艦乗組員とが堺浦で衝突し,フランス人に死傷者を出した。このため政府の和親外交方針に沿って,警備の土佐藩士は堺妙国寺で切腹処分となったが,その凄惨な光景を見るに耐えず,途中でフランス側から助命があり,日本側の陳謝と賠償金とで事件は落着をみた。明治元年大小路通以南が堺県,以北が大阪府に所属したが,同2年全域が堺県に所属。同5年の新町起立,町名改正により195町となる。同12年堺区となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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