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坂門牧(古代~中世)


平安期~戦国期に見える牧名河内国大県【おおがた】郡のうち坂戸牧とも書き,戦国期には坂門牧荘とも見える初見は「小右記」万寿4年3月27日条「禅室領坂門牧」と藤原道長領の牧として見える当牧および藤原頼長領大和国千代荘の雑人が河内国河内郡辛島牧で田畠を作り濫吹したことが訴えられている(大成)下って「兵範記」保元2年2月12日条では,春日祭の「秣五十束」を当牧が負担しており,摂関家領であることが確認できる(同前)「玉葉」文治2年4月16日条には「大和国依御園与坂戸牧堺争論事」とあり,当牧と大和国依御園との間に境界をめぐって相論があったことがわかるこのことから,当牧が大和国と堺を接していたものと推定されるその後近衛家領として見え,建長5年10月21日の近衛家領目録には「庄務本所進退所々」のうちに「〈河内国〉〈京極殿領内〉坂門牧〈範忠〉」とあり,平範忠が預所となっている(近衛家文書/鎌遺7631)建武3年11月28日の光厳上皇院宣および同年12月2日の足利尊氏書状では近衛家の相伝知行を認めており(海蔵院文書/富山県史2),「愚管記」永和4年2月6日条によれば近衛道嗣は「家領坂門牧」を三宝院僧正光済に知行させている(続大成4)また「経覚私要抄」文明3年8月25日条には「河内国花山院領坂(門)牧庄」とあり,荘園化したことが知られる当時花山院家領および春日社領となっていた当荘に対し守護側から違乱があり,それを春日社の神宮預祐遠に訴えたもので(大日料8-5),同書同4年8月25日条には,神宮領宛に上分を出し,春日社領とする旨の書状が出されている(荘園志料)下って,永正12年11月日の円満院門跡門下輩言上状によると,「播州下端・河州坂門牧両庄」は元来円満院領であり,花山院家が教助の時から押領の意図を持っており,現在押領していると訴えている(京都御所東山御文庫記録/大日料9-5)なお「尊卑分脈」によると,文徳源氏の一流坂戸源氏は当地を本貫としており,文徳天皇の第1皇子能有王の5世の孫章経,その子公則は河内守となり,その子忠念は「河内国住人,号坂戸源氏」とあり,公則の孫信季は「坂戸住人,出生以坂戸為本領」と記されているその子康季は白河院の北面の武士として仕えているが,「本住所河内国坂戸牧也」と記されている荘域は従来古市郡にある清寧天皇坂門原陵付近(羽曳野【はびきの】市西浦)に比定されてきた(荘園志料・府史)しかし,雁多尾畑【かりんどおばた】の松谷光徳寺所蔵の「東広山照曜峰寺記」に「内州大県郡坂戸牧雁多尾畑」,同寺所蔵の「親鸞聖人御影」の裏書にも「河内国大方郡坂戸牧」と見える(柏原市史)また東方近傍の「和名抄」に見える大和国平群郡の坂門郷は,現在の奈良県生駒【いこま】郡三郷町立野付近に比定されているさらに現在柏原【かしわら】市雁多尾畑の北方に小字坂戸があり,同市平野の東方一帯を坂戸とも称していることなどから,雁多尾畑を中心とする地域に比定される(同前)




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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