狭山郷(古代)

奈良期~平安期に見える郷名。「和名抄」河内国丹比【たじひ】郡十一郷の1つ。高山寺本では「佐夜万」,東急本には「佐也万」と訓む。「新撰姓氏録」和泉国神別に「狭山連。大中臣朝臣同祖。天児屋命之後也」と見え,郷名は狭山氏が居住していたことによると思われる。天平3年7月5日のものと伝えられる(延暦年間頃とする説もある)住吉大社司解に山預の石川錦織許呂志が仕え奉る山河の四至が記され,地限のうちに「狭山」の名が見える(住吉大社神代記/平遺補1)。同20年4月25日付の写書所解では,「村山連首万呂〈年廿五 河内国丹比郡侠(狭)山郷戸主少初位上村山連浜足戸口〉」が出家を申願している(正倉院文書/寧遺中)。当地は鋳物師発祥の地で,鋳物師が古くから生産に従事していたと伝えられる(狭山町史)。真継家によって各地の鋳物師に発給された真継文書は史料的に検討の余地を残すが,当郷名が散見する。仁安2年正月日付の蔵人所牒写によると「河内国丹南郡狭山郷内日置庄鋳物師」が,蔵人所供御人となり,各々短冊を賜って,諸国七道・京中市町・和泉河内両国市津を往復して鉄の売買を行っていた(真継文書)。同年のものとされる蔵人所牒写には,惟宗兼宗が「河内国丹南郡狭山郷□(内)〈異名日置〉」の住人を本供御人・番頭とし,「建立蔵人所灯炉以□(下)鉄器物供御人」したことなどが見える。また,当郷は崇神天皇62年,「河内の狭山の埴田水少し」のため池溝を開いた土地である(日本書紀)。「古事記」垂仁天皇条に「狭山池」を造るとあり,のち「続日本紀」天平4年12月17日条に「河内国丹比郡狭山下池」を築くとある。天平宝字6年4月8日には「河内国狭山池」の堤が決壊したので,単功8万3,000人で修造している(同前)。なお,行基は当地で池を修理した際に,伝道を行うために池院と尼院を建立したといい,天平十三年記に,行基造営の15池の1つである「狭山池」が「河内国丹比郡狭山里」にあると見え(行基年譜/続々群3),「行基年譜」の天平3年条にも「狭山池院□二月九日起,尼院已上在河内国丹比郡狭山里」とある(続々群3)。また「延喜式」神名帳に見える「狭山神社」「狭山堤神社」が貞観元年正月27日,従五位上に進められている(三代実録)。「地名辞書」は比定地を旧狭山村・旧野田村としており,現在の狭山町池尻・半田・東野から堺市北野田・西野田・南野・丈六・高松付近にかけての一帯に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7383377 |