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白木村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。石川郡のうち。はじめ幕府領,寛文元年伊勢神戸藩石川氏領,享保17年からは常陸下館藩石川氏領。村高は,河内国輯録で1,097石余,「天保郷帳」「旧高旧領」でも同高。家数は寛文初年102軒,のちの家数・人数は,寛政5年113軒・437,享和3年114軒・421,文化2年117軒・394(河南町誌)。石川氏の河内国石川郡・古市郡内1万石の地を管掌する代官所(白木役所)が当村に置かれ,同領分は飛地領であるが地域的にまとまっていることから白木藩と称された。略式ながら兵制ほかの諸制が敷かれて藩としての体裁を整えており,また役所は堅固な構えに造られ,周辺はあたかも城下町のごとき観を呈していたという。幕末の安政末年から文久年間までの頃には武芸訓練を,慶応4年にはミニエル銃15挺を購入して農兵の調練を行っている。また,宝永・享保・文政年間には藩の許可により,寛政4年には幕府の許可を得て白木札と呼ぶ藩札を発行。同札は享保年間以降,本藩の窮乏もあって乱発された。当村を中心とする領域には,年貢率40~70%の定免制がとられ,うち6%が金納と定められていた。当村の鎮守は,のち明治40年に水分の建水分神社に合祀された牛頭天王社(白木神社)。同社境内には宮寺の真言宗新福寺などがあった。寺院にはほかに,浄土宗円通寺末往西寺,真宗両派の立合道場である法光寺,浄土真宗本派法定寺などがある。明治5年の戸数114・人口515,同9年では戸数139・人口632(同前)。同5年白木役所跡の一画に白木郷学校開設,同校は同8年白木小学校と改称後,同17年加納尋常小学校に統合された。なお地内今堂は,金剛道が古市街道として改修されて,街村の様相を呈するようになった。同14年大阪府に所属。同22年白木村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7383813