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谷川荘(中世)


 鎌倉期~南北朝期に見える荘園名。和泉国日根郡のうち。興福寺領。初見は,「三会定一記」の建久9年条で,「和泉国御所造営之間。国使催御領谷川庄処召使等」とある(興福寺叢書1/大日本仏教全書)。この史料によれば建久9年8~11月にわたって起こった興福寺と国衙との間の相論を伝えており,8月16日の後鳥羽上皇の熊野参詣準備の一環として当荘をはじめ池田荘・春木荘などの和泉国諸荘園にも宿所の御所造営の負担が課せられたことがわかる。この際,国衙側の虐待や神木焼失などの行為に激怒した興福寺衆徒は9月27日より国司平宗信の流罪と目代の禁獄を訴え蜂起し強訴に及んだ(同前)。さらに興福寺側は11月1日付の興福寺牒状(鎌遺1009)をもって,国司の非法とこの蜂起の正当性を訴え,源頼朝の理解と取り成しを求めている。最終的には11月27日国司宗信の播磨国配流,衆徒側の首謀者として玄俊の佐渡国配流を決定した院宣が出され,事件は興福寺側が一応所期の目的を果たした形で落着した(三会定一記/大日本仏教全書)。なおこの相論の関連史料が「和泉市史」1に集録されている。建久9年の相論が,当荘に課せられた臨時雑役が契機となっているように,当荘にはそのほか寺領としての種々の負担が課せられていた。例えば,文永2年10月のものと推定される興福寺人夫召文注文(大乗院文書/鎌遺9372)によれば,興福寺領37か所に各10日間の人夫役が課せられ,「谷川荘廿人〈代一貫五百弁了〉」とあり,谷川荘は20人を当てられ代わりとして一貫500文を納めている。「文保三年記」の元応元年8月23日条には興福寺秋季御八講初日の進物として「谷河庄 一前」,同年9月条には興福寺大垣修理として「半間 谷河庄」,同年11月1日条には慈恩会進物として「谷川庄 一前」が見える(吹田市史4)。また,他荘における興福寺と国衙間の抗争に谷川荘が関係する史料として承久4年3月の大江泰兼愁状(大東家旧蔵文書/鎌遺2937)がある。本文書には阿波富田荘に国衙船が入津し,この船中に末社別当安養房により神木が奉立されたが,この神木は国衙使によって破棄されたので,神威高揚のため国衙船を興福寺領の当荘に移したとある。12世紀後半~13世紀前半の国衙と興福寺間の対立に替わり,13世紀後半からの史料には地頭の非法が見られる。例えば,「中臣祐賢記」の文永元年9月2日条(続大成1)に見える後嵯峨上皇院宣案文には「一,谷河庄事……依一庄地頭非法忽奉動神明之御行」とあり,荘内に地頭非法に関する訴訟問題が持ち上がったことを伝えている。さらに下って観応元年9月10日の御挙状等執筆引付(大日料6‐13)には,興福寺別当孝覚から畠山国清に宛てて地頭勝田浄照の非法を訴える記事が見える。なお谷川の地名は「源平盛衰記」にも見え,寿永3年阿波国安摩六郎宗益が能登守教経に追われて和泉国吹井谷川に逃げたと記されている。また興禅寺には「和泉国谷川庄 興福寺 正平廿一年〈丙午〉九月廿八日 沙弥宗賢」と刻した石灯があり(大阪金石志),大福寺鐘銘にも「奉施入和泉国谷川庄子守勝手蔵王三所御宝前鐘如件 天文五年丙申三月十一日神主次郎太夫同女房子息左次郎」と見える(日本古鐘銘集成)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7384350