西島村(中世)

南北朝期に見える村名河内国丹南郡のうち弘安11年6月13日の道智譲状(旧記雑録前編1/鹿児島県史料)に「かハちのくにゝしのしま」とあり,当地は三池安芸杢助入道道智相伝の私領で,娘の名々に譲ったが,悔い返し,道智の妻に譲り渡しているそして道智の妻(如円)は道智の死後,嘉元3年12月20日の如円譲状(同前)で名々の弟の三池近房の娘の米々に当地を譲っている暦応3年8月日の三池近房言上状(同前)には「河内国丹下郡岡村内西嶋地頭職事」と見え,先の2通の文書を副進しており,代々相伝したのは地頭職であったことがわかるしかし,本文書では近房の娘米々が相伝すべきところを,近房の姉名々の子島津道鑑が米々を差し置いて不知行の田村助三郎に沙汰をして,安威左衛門入道の奉行した室町幕府の奉行人奉書を掠め取り,打ち渡してしまったことを幕府に訴えているこの訴えに対し,暦応4年9月11日の足利直義下知状(島津家文書/南北朝遺1705)では,道鑑が領掌すべしとの裁許が下されている本文書によると道鑑の主張は,弘安11年3月に道智より名々へ当地の地頭職が譲られ,さらに名々より正安3年2月に名々の娘の阿久里に譲り,元亨3年7月10日の兄弟(妹)の和与状により,道鑑の領知するところとなったというものであるこの両者の主張に対する裁許では,両者とも格別の証文を所有していないが,道鑑の所持する元亨の和与状および元徳2年4月27日の六波羅下知状により,道鑑の相伝を認めて先の判断が下されているそして,延文元年8月6日の足利義詮下文(同前)では薩摩国守護職などとともに「河内国西嶋村……〈以上本領〉」として島津道鑒(貞久)に安堵されているなお,これが村名としての初見である次いで貞治2年4月10日の島津道鑒譲状案(旧記雑録前編2/同前)では惣領師久に薩摩国守護職などとともに「河内国西嶋村地頭職」を譲り渡しているまた,暦応元年8月28日に「道義公,以河州丹下郡西島為湯沐邑」との記事があり,道義が当地で湯沐をしたことがうかがえる暦応3年8月日の三池近房言上状に見える「丹下郡西島」は丹南郡丹下郷西島の誤記かと推測される当地は江戸期直前に,西川村・島泉村に分立したものと思われる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7385297 |