菱木(中世)

南北朝期から見える地名。大鳥郡のうち。初見は延元2年3月日の岸和田治氏軍忠状案(和田文書)で,南朝方に属した治氏は延元元年10月8日,「令発向若松庄玉井彦四郎入道城,并和田・菱木已下凶徒等住所,焼払之」とある。菱木や和田に北朝方の勢力がいたことがわかる。文明15年7月日の和泉国衙分目録(八代恒治氏旧蔵文書/岸和田市史)に,「菱木〈地下請十貫文〉」と見え,国衙領があったことがわかる。ついで年未詳10月4日の香西元盛書状などによれば,10月1日に菱木で合戦があり,元盛方に属した和田太郎次郎が討死にしている(和田文書)。この合戦では日根野又次郎と同五郎左衛門は細川元常軍に属して戦功をあげている(日根文書/泉佐野市史史料編)。また永正10年11月18日の菱木南明庵畠地売券(土師楠嘉文書/堺市史続編4)では,「菱木南明庵先師相伝之地」であった「若松荘下条大平後」の畠が売られている。なお,正嘉2年3月20日の高野御幸のときの和泉国地頭御家人着到交名(和田文書)に菱木左衛門尉が見え,室町期には河内国交野【かたの】郡代・錦部郡代として菱木氏が見える(府史)。「和泉国神名帳」には,菱木社・菱木大畠社・菱木大歳社が見える。現堺市菱木付近に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7385831 |