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賀集荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。三原郡のうち。建久3年3月日付後白河院庁下文案に「淡路国福良・賀集庄〈高野宝塔三昧院領〉」とあり,勅事・院事・国役以下の課役を停止されている(大徳寺文書/鎌遺584)。領家の高野山宝塔三昧院は後白河院の御願によって創建,のちに同院寵妃の高階栄子が願主となり,宝幢院と改号した。建仁3年10月20日付紀伊国司庁宣には「宝幢院米 淡路国 賀志尾荘」と見える。当荘からの年貢船は「賀集船」と称し,紀伊国衙の差課す所課を免除された(高野山文書/鎌遺1387・1393)。貞応2年の淡路国大田文には高野宝幢院領として「賀集庄〈前地頭左近将監忠光国御家人,新地頭船越右衛門尉〉田百廿丁 畠」とある。地頭は国御家人左近将監忠光であったが,承久の乱後は長田村・慶野荘の地頭を兼ねる関東御家人船越右衛門尉が新地頭となった。この後,当荘から西山荘が分立,領家職は後白河院女宣陽門院の管領となり,六条殿長講堂に寄進された。文和2年3月5日付三条公秀譲状には「一,長講堂領淡路国福良賀集西山三箇庄」(加賀前田家蔵文書/大日料6-17),また応永14年3月日付宣陽門院御領目録にも「同国福良賀集庄 三条宰相中将家」とある(八代恒治氏所蔵文書/同前7-8)。この間,預所職は三条公秀・実継・公豊・実豊・公雅と三条流藤原氏が相伝している。荘内には高野山鎮守の丹生神社が鎮座したが,のちに賀集八幡宮が祀られた。同宮別当寺は賀集寺で,のちに護国寺とよばれた。暦応3年,淡路平定のため阿波より上陸した細川師氏は,賀集山城が丸に陣を取り,賀集八幡宮に願をかけて,南朝方に大勝した(護国寺文書・三原郡史)。この後も賀集八幡宮は代々淡路守護細川氏の崇敬を受けた。文和2年10月には法性寺中将ら南党が「淡州賀集庄丹山」に陣を取ったため,細川春氏に率いられた船越氏ら北朝方がこれに対峙している(記録御用所本古文書/大日料6-18)。室町期には荘内の土豪賀集氏が活動,嘉吉2年10月には賀集次郎左衛門康愛が見え,長禄2年8月には賀集美濃守公文,文明3年2月には賀集美濃守安親らが所領を賀集八幡宮に寄進している(味地草・護国寺文書)。戦国期には賀集木工助盛政が三好氏の下で活躍したが,天正11年淡路を離れた(三原郡史)。現在,南淡町賀集の小字城の腰に同氏の居館跡がある(城館荘園遺跡)。文明2年8月11日付番役差定によれば護国寺御番所の番役が野田村・高萩村・西山村・法花寺村・牛内村・鍛冶屋村・中村・忌部村・立川瀬村に割り当てられているが,これらは当荘内に成立した村々とみられる(護国寺文書)。現在の南淡町賀集および同町の賀集を冠称する地域に比定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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