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洲本(近世)


 江戸期の城下名。津名郡のうち。洲本城には,羽柴秀吉によって天正10年仙石秀久,同13年脇坂安治が配された。慶長14年安治が伊予国大洲藩主に転じたのち,一時伊勢国津藩藤堂高虎に預けられ代官が派遣され,同15年播磨国姫路藩池田輝政の三男忠雄が淡路国を領有するようになると,岩屋・由良に新城が築かれて洲本城は廃城となった。元和元年から淡路国が阿波国徳島藩領とされると,同藩家老稲田氏が由良城代となり,寛永7年幕府に由良から洲本への政庁の移転が許可されて,同8~12年に当城下の建設が行われた。この淡路国における城下の移転・建設を由良引けと称する(洲本市史)。これによって新たな洲本城が築造された(城館荘園遺跡)。なお,「淡路草」の洲本府の条に所載の天文中安宅隠岐守城下略図を見ると,東は海(大阪湾)で城の北に町場が記され,城と町の間に入江がある。また,町の北は塩浜川,西は同川を引いた濠となっており,農人橋が架かり,町の中に津田庄屋が記されている。由良引けによる城下整備によって,当城下は農人橋西方の津田村の田畑や農家に広がり,城下西端に配置された寺院のほとんどが由良引けによる由良浦からの移転と伝える。三熊山麓に築かれた洲本城は物部川(千草川)・洲本川を天然の外堀とし,城下はそのほぼまん中を南北に掘削した幅10~40間の内堀によって内町と外町に分けられた。内町・外町とも整然とした町割りが行われたが,内町と外町とは接合部が食い違っており,また街路の歪曲,T字路,鉤形路,交差点の食い違いなど,城下町的な特徴が施された。なお,物部川(千草川)・洲本川の堤防には治水のための松が植えられ,内町・外町を松の内と呼ぶ由来となった。洲本の城下町がほぼ完成されるのは江戸中期の貞享年間とされる(堅磐草)。城下町の建設は,まず外町の御鉄炮屋敷の建設から始められ,それ以後順次諸士の屋敷割がなされた(阿波藩民政資料)。当城下には,一丁目・二丁目・三丁目・四丁目・五丁目・六丁目・七丁目・八丁目・細工町・馬場町・上大工町・下大工町・上水筒町・下水筒町・紺屋町・鍛冶屋町・新町・中町・漁師町(八丁目を除く以上の各町は明治初年洲本を冠称),八幡宮前通・中屋敷・新蔵町通・百姓町・上築屋敷・下築屋敷・寺町・八軒屋・溝・下・下屋敷(八丁目および以上の各町は明治初年津田を冠称)がある。すでに天正20年の脇坂安治感状(脇坂文書)には「すもと中町」の甚四郎ら4人を記しているが,これと由良引け後の中町との関係は未詳。内町は城下町の主体部をなし,三熊山麓の北側に濠をめぐらせた洲本城(下の城)が築かれ(呼称ははじめ須本御屋敷,次いで御城地御殿,御城と変わる),城内には藩主や洲本城代稲田氏の屋敷が置かれた。城濠の周辺には新御蔵や銀札場・学問所などとともに,一帯に稲田氏の上屋敷のほか高禄藩士の屋敷がある新蔵町通・馬場町・中屋敷・八幡宮前通などの町が配された。武家屋敷は,下堀から塩屋川沿いにも立ち並び,上原町・下原町・会所町が設けられた。また,四丁目にある外町への出入口には枡形塁が設けられ,その隣には牢屋敷が置かれた。会所町には,会所・鍛冶蔵・作事方役所・奉行所などが設けられ,また会所町に隣接する下原町周辺には諸奉行の屋敷が配されて,枢要の地域であった。このほか北辺の川筋に面しては洲本仕置や洲本本〆などの高禄藩士の屋敷が配されていた。なお,内町から外町の百姓町に通じる橋は農人橋と呼ばれた。また,内町の東側塩屋川尻には港が設けられ,一帯には川口番所・浜屋敷・船屋・揚場などの施設があり,港町としての機能を果たしていた。そして,内町の町屋はこれらの役所,武家地に取り囲まれるように配された。内町のほぼ中央を東西に通町と称した一丁目から四丁目の商人町や,上水筒町・下水筒町・魚町などの町人町があり,上大工町・下大工町・細工町や港近くに漁師町があって職人町を形成していた。外町は,南の曲田山山麓に中・下級の藩士や稲田氏とその家臣の屋敷が広がって下屋敷を形成して山際を固め,西側の物部川(千草川)川筋には下級藩士や御鉄炮の長屋屋敷が立ち並ぶ鉄炮町,5丁目から8丁目の通町,溝之町(溝)・八軒屋など,さらに寺町を形成し西方からの防衛を意図した配置をしている。また,北側の塩屋川筋は,上築屋敷・下築屋敷と呼ばれ,稲田氏の菩提寺江国寺に続く武家屋敷町となって北方への守りを意図した配置がうかがえる。外町の武家屋敷街は,中・下級藩士の居住区となっていた。外町の町屋は,内町と同じように武家地に囲まれ,ほぼ中央に東西に広がり,中心は通町と称した商人町であった。町屋にはこのほか,紺屋町・鍛冶屋町・百姓町などの職人町がある。この洲本の城下と外域との通路は,物部川(千草川)と塩屋川に架設された橋および上物部口によってのみ可能であったように,城下町全体が城塞の役割を果たしていた。市中と呼ばれた洲本城下町の行政は,淡路を統括する洲本城代・洲本仕置の下に,武家は本〆・目付,御鉄砲は組頭・杖突,町人は町奉行・手代・市中惣年寄・町年寄・五人組によって行われた。洲本城代は,阿波・淡路両国で1万4,500石を領する徳島藩筆頭家老稲田氏の世襲。また,淡路国の行政の最高責任職である洲本仕置職にも留守や幼少時以外は稲田氏が命じられた(将卒役令/阿波藩民政資料)。惣年寄は慶安3年まで宮本勝左衛門(宮本屋)が勤め,以後は仲間4人となり,宮本屋のほか藤屋宗左衛門・広田屋久右衛門・正直屋久左衛門が世襲で勤め,のち,広田屋は退役して三家となった。文政7,8年頃の洲本在住徳島藩士126人うち高取士分51人・無足75人(阿州徳島藩御家中録)と足軽組12組・311人(宝暦6年御家中分限帳須本分)。宝暦年間の市中の人数4,171,壱家385軒,竈数952(佐野家文書)。市中警護の辻番所は,天和3年に14か所うち6か所は上大工町・下水筒町・魚町・二丁目・五丁目・六丁目にあって年中開所し,ほかの8か所は10月から3月まで開いていた。元禄10年には洲本仕置の稲田稙栄が洲本港口を改修し,大波戸(千畳敷)を築いた。棟付改めは,慶安2年・延宝元年・享保元年・同15年・文化2~8年の5回行われた。天明2年には淡路最大の百姓一揆である縄騒動が起こり,当時の洲本仕置は減禄謹慎,担当役人の闕所など厳しい処分がなされた。文久2年海防のため洲本海岸に霞砲台が築かれた。鎮守は洲本・上物部村・津田村の氏神である洲本八幡神社で,15石余を給され,別当は竜宝院。洲本明神は洲本の古い鎮守であったという。このほか,洲本城の鎮守といわれる八王子社や戎社,富御前があった。寺院は真言宗竜宝院(旧名常楽寺)・同宗神宮寺・禅宗吸江寺・同宗心光寺・同宗江国寺・真言宗地蔵寺・同宗青蓮寺・同宗千福寺・浄土宗専称寺・同宗称名寺(旧名藤の寺)・法華宗本妙寺・一向宗浄光寺(旧名勝宝寺)・同宗浄泉寺のほか,淡路三十三薬師巡礼の札所下の薬師のある薬師堂,洲本明神の別当南学院・浄福院があった。江国寺は斎藤道三の庶子大秀和尚開基で,20石を給され稲田氏代々の菩提寺であった。寛政10年藩の学問所が上水筒町に設けられ,明治元年文武学校と改称し洲本馬場町に移転した。また,延享年間に稲田氏の家臣や郷士の子弟を教育する稲田学問所が設けられ,天明5年下屋敷の稲田氏西別荘の地に移して益習館と称した。私塾は中田謙斎の履堂書屋,奥井中里の中里書屋など37か所,寺子屋は16か所が知られる(県教育史)。元禄3年大だんじりが洲本八幡神社の祭礼に初めて出て,以後盛行した。慶応3年にはええじゃないか踊りが流行した。当地の人物に,享保~宝暦年間頃の安盛流火術の創始者矢野専治安盛,幕末に漂流して帰国後藩士に取り立てられ通辞などで活躍した天毛政吉,幕末~明治期にかけての漢詩人で「明治三十八家絶句」の1人伊藤聴秋らがいる。明治3年に起こった庚午事変がもと武士階級の急速な没落と武家屋敷の荒廃を促し,洲本の支配体制と都市構造の近代化を促進する結果となった。徳島藩では,明治2年の藩政改革によって洲本仕置を廃止し,新しく洲本担当の執政助役に西尾可敷,参政に星合常恕・橋本以謙を任命,同3年には徳島藩庁の出先機関北民政所を洲本に置いた。同年の庚午事変は稲田騒動と呼ばれ,秩禄処分への不満に端を発し分藩独立運動を進めた稲田家臣団と,これを藩主に対する不忠義として制裁にでた徳島藩の家臣団との武力衝突で,無抵抗の稲田家臣団に藩側は兵火をもって襲うという結果となった。このため自殺2・死者15・重軽傷20のほか稲田氏邸宅・稲田家臣などの家屋が焼かれた。この事変の処理として明治政府は襲撃した藩側に斬首・遠島など厳しい処分を行う一方,稲田氏側に対しても北海道開拓を命じた。稲田邦稙と家臣団一行は翌年北海道日高郡静内へ移住した。同9年洲本山下町に洲本支庁が置かれ,同12年津名三原郡役所と改称。明治10年洲本内通町外17町戸長役場設置,同16年洲本役場と称した。内町と外町を画した内堀は,明治6年から数回にわたって埋め立てられ,上堀は同27年,下堀は同32年までに農人橋まで埋め立てられた。明治4年藩立東小学校(旧文武学校,同5年共立小学校,同6年第12大区1番小学校,同年日進小学校と改称),洲本監獄支所設置。同5年洲本漁師町に開設された洲本郵便役所を同8年洲本郵便局と改称。明治7年名東【みようとう】県洲本支庁巡査屯所が開設され,同9年名東県警察第三出張所,同年兵庫県洲本警察署と改めた。明治8年徳島師範期成学校洲本支校(通称洲本師範学校)開校,同9年洲本区裁判所を洲本山下町の洲本城内に開設,同14年洲本治安裁判所,同23年洲本区裁判所と改称。同11年には全町村組合立洲本中学校が開校したが,同18年廃校。明治16年神戸始審裁判所洲本支庁を設置,同23年神戸地方裁判所洲本支部と改称。明治16年洲本電信分局を設置,同22年合併して洲本郵便電信局と改称し洲本内通町に移転。明治20年津名高等小学校が開校,大正2年尋常科を併置。明治22年兵庫県収税部洲本派出所を洲本山下町に設置,同23年洲本直税分署洲本間税分署,同26年洲本税務署と改称。病院は明治初年洲本漁師町に仮洲本避病院を設置したが,同24年山下町に移転。明治9年洲本汐見町新御蔵跡に津名三原共立洲本病院を設置,同10年公立に移管,同12年廃院。明治8年自由民権運動の結社自助社洲本分社が結成。同10年安倍喜平によって淡路新聞創刊(同16年廃刊,同23年復刊)。明治10年士族授産のため織物場設置。同13年には淡路汽船会社が蒸気船による洲本阪神間航路を開設し,同16年に大阪商船会社に吸収された。社寺では,洲本汐見町の竜宝院と洲本外通町七丁目の浄泉寺が廃寺となったほか,厳島神社が明治6年に洲本漁師町から上堀の埋立地へ移転した。同11年頃基督教日本聖公会真光教会を洲本内通町に設置。同12年国瑞彦神社を洲本汐見町に創建。同年には洲本遊郭が設置された。同17年には洲本博覧会が開かれた。明治4~9年の戸数2,406・人口7,267(地誌提要),同22年の人口1万2,563。なお,明治初年洲本漁師町の一部が津田元地となったほか,明治12年頃には旧城下の各町の一部は合併・改称を行い,内通町・外通町・細工町・馬場町・大工町・水筒町・紺屋町・幸町・漁師町・船場町・山下町・汐見町・常盤町・築地町・川傍町・上清水町・下清水町・下屋敷町となり,各18町は明治22年頃まで洲本を冠称。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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