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槻並村(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える村名。摂津国河辺郡多田荘のうち。弘安元年と推定される多田院金堂上棟引馬注進状に「一疋下 槻並五人寄合」と記され,また,正和5年多田院堂供養指図によれば,同院堂供養の際,警固にあたった多田院御家人の中に「槻並六人」が見えている。応安元年金堂供養棟別銭注文には「槻並」とあって,多田院から棟別銭を賦課され,永和元年にも多田院法花堂などの造営棟別銭が「槻並村 九十三家」に懸けられた。文明18年多田荘段銭結解状によれば多田荘新田方分として「一,槻並村 四町六段内〈四段小 川成 四丁一段大 平瀬方跡〉同国久名」,同荘諸本所分として「一,槻並村 四町三段三百歩内」と記載され,多田院に段銭を納めている。下って,永正3年にも段銭が賦課されている(多田神社文書)。この諸本所分とは壬生官務家小槻氏の所領とみられる。文明11年官務家領目録写によれば,壬生家は「槻並村一円年貢」を検納し,また,年月日未詳壬生家某申状草案には「一,同多田庄内槻並村金山下地事,如元可致沙汰由,御下知佐々木多田事」とあり,村内に壬生家の管領する鉱山が存在したことも知られる(壬生家文書)。永享3年には「摂州多田庄内槻並村平瀬三郎左衛門尉・中池新左衛門尉」を退治するため,丹波・摂津の軍勢が出陣,両名はやがて降参したという(御前落居奉書永享3年6月18日付室町幕府奉行人連署奉書/室町幕府引付文書集成上,満済准后日記永享3年3月9日条)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7393311