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長洲(中世)


 平安末期から見える地名。河辺郡のうち。東大寺領長渚荘・鴨社領長渚御厨は平安末期から「長洲」と表記されるのが一般的となった。中世の同荘は前代より広く,旧大字長洲の字杭ケ本と字洲末あたりを南限としたと推定できる。現在の尼崎市長洲本通・長洲中通の各2丁目。杭ケ本は州に杭打ちの柵を設け,土砂の流失を防止したことに由来するのであろうし,洲末も州先の意で,長洲荘の外周と考えられる。久安年間に至り,東大寺は「寺領摂津国長洲庄地子」をめぐって鴨社と相論,長洲住人が鴨社の威を借りて寺家への地子を逃れることを非難し,新たに寺家の修造夫役を勤仕させるとともに,数千家にも増加した住人を寺家・社家で二分することを主張して,荘支配の拡充を企てたが,久安3年11月8日付官宣旨では東大寺の訴えは退けられ,屋敷地地子は東大寺,住人役は鴨社が進止する体制が確立した(東南院文書・未成巻東大寺文書/平遺2628・2632)。しかし,保元2年の荘園整理令で神人乱行停止がうたわれると,応保元年に寺家は鴨社の長洲供祭人を本来の38人に限定し,残る住人は寺家支配とするように要求している(東南院文書/同前3213)。一方,中世の長洲御厨も平安期より広く,大物浜・尼崎浜の鴨社領御厨も含む形で拡大し,戦国期文明14年頃の摂州社領人給分等注文では「鴨社領……長洲御厨〈号尼崎,不知行〉」と表記されているように(蜷川家文書2/大日古),中世後期には中心が尼崎御厨に移りながらも,長洲御厨と称された。神人らが開田の進展に伴い南の尼崎浜に集中して生活した結果といえる。同御厨の領域は現在の尼崎市長洲本通2・3丁目,長洲中通3丁目,北大物町,昭和通1丁目,東大物町1丁目,大物町1・2丁目の各一部(稲川・古猪名川ともいわれた大正5年当時の大物川流域)と推定できる。承安4年2月,「長洲御厨司」の橘行遠から荒野の寄進をうけた鴨社禰宜鴨祐季は長洲御厨の支配地を広げるため大規模な開墾を計画,同5年正月東大寺に同寺領猪名荘内の江に堤を築いて開田したいと申請した。この開発予定地は長洲と大物の間にあり,陸地の自然造成の結果,浜の背後に残された低湿地帯の南側の部分で,「有当社御領長洲御厨最中,潮出入跡地」といわれた。祐季は私能米300石を投じて潮出入を防ぐ堤を築き,成功後は毎年地子米を東大寺に納める条件を提示,開発田の耕作人には「長洲御厨供祭人」をあてることとして,領主職は祐季子孫の相伝知行とした。御厨住人たちは中世的領主支配のもとに再編成されたことになる(東大寺文書/平遺3672,真福寺文書大物浜長洲浜請文/尼崎市史4)。鎌倉期長洲御厨が土地支配に基づく荘園に変わり始めると,大物や尼崎などの新出地を御厨内と主張するようになり,東大寺との領有相論は激化した。一方,東大寺は「長洲御厨開発田」の地主権を主張,建保5年長洲開発は東大寺の進止に属するとの意見から,地利は寺家に納め,雑事は社家に勤めると定められた(東大寺続要録/続々群11)。時の後鳥羽院政は東大寺を支持し,鴨社の開発社地も寺領内にとり入れようとした。この新開田は旧大字長洲のうち,杭ケ本や洲末の南方にある小字寺田・大門付近にあたると考えられる。御厨に属する長洲供祭人は漁民や舟運業者の集合といえ,承元2年8月には日吉神人と船のことで争い,供祭人の差配が認められているし(九条家本賭弓部類記裏文書/鎌遺1755),建保年間の裁定後,嘉禎2年3月日付鴨社社司等申状案によれば,東大寺衆徒数百人が長洲御厨に乱入して「供祭之船」の没収を図ったという(京都大学所蔵東大寺法華堂文書/尼崎市史4)。正嘉年間にも東大寺と鴨社は相論を繰り返したが(経俊卿記正嘉元年4月・5月条,京都大学蔵狩野亨吉蒐集古文書後欠東大寺三綱大法師等申状案/同前),文永初年,東大寺はその新開田を「当寺本領摂津国長洲庄内新開大物・尼崎両浜」と称し,平安末期に猪名為末なる者が開発,地主職留保のうえで寺家に寄進されたものと主張するに至った。しかし,実情は長洲住民は鴨社と結んで東大寺および当時の地主成仙阿闍梨に反逆する状態であったという(東大寺文書/鎌遺9602)。長洲荘の南西方,旧大字金楽寺から西長洲南部にかけての地域は「野地村」「野地前田」などといわれ,鎌倉前期の文暦2年3月,東大寺別当良恵から東大寺法華堂(三月堂)に寄進された。法華堂では大法師禅幸に築堤させて開発を進め,仁治2年2月にはこの功によって禅幸を同所雑掌に任じている。その後,雑掌となった法橋行春は地元の有力者で,文永4年9月には「長洲庄畠地沙汰人」にも補任された(薬師院文書/鎌遺9772,京都大学所蔵東大寺文書/鎌遺15176・19797,京都大学所蔵東大寺法華堂文書長洲荘文書注文案/尼崎市史4)。正和元年に本所東大寺の宛文を得た新司と称する悪僧澄承僧都が長洲荘へ現れ,法華堂領長洲開発田と野地村の刈田狼藉を強行した。野地村はかねて鴨社側でも同社領への編入を企てていたため,鴨社側とも衝突を起こし,澄承は社領である「摂津国長州(洲)・大物・尼崎三箇御厨野地村并前田開発田」の神物まで抑留し,反別5升の地子を徴収したと訴えられている(狩野亨吉蒐集古文書・東大寺法華堂文書/鎌遺23598・24617・24618・24659)。また,正和2~3年に「長洲庄土民教念法師」と悪党集団が興福寺寄人と称し荘内開発田を興福寺に寄進しようとしたという(東大寺文書正和3年2月17日付年預五師宗算起請置文案,未成巻東大寺文書後欠東大寺書上案/尼崎市史4)。また,この時期,長洲荘の周辺にあって相論の対象となった地域に東大寺領猪名荘内の長洲村がある。同村は正嘉元年の東大寺三綱大法師等申状案に「康和官使検注帳,以長洲村注猪名庄内」,元亨3年2月日付杭瀬荘雑掌申状案には「寺家所進称天承検注帳案文云,長洲村字杭瀬浜云々」と見えて,平安後期に長洲浜に居住する在家人によって開村されたものと推察される(京都大学所蔵狩野亨吉氏蒐集古文書・水木直箭所蔵文書/同前)。この長洲は旧大字長洲の字堤ケ内と大字杭瀬の字堤外に挟まれた江(神崎川旧流)が開発されたもので,堤ケ内・堤外の小字は東大寺側の開発者によって築堤がなされた名残といえよう。現在の尼崎市長洲東通2~3丁目・長洲中通3丁目付近と考えられる。長洲東通3丁目の長洲小学校北側には長洲包含層と呼ばれる遺跡があり,平安期以来の須恵器・土師器・瓦器などの生活遺物が出土しており,長洲村は当初はこのあたりに開かれたのであろう。同村の東方の新開荒野は「猪名庄内長洲村東野新開荒野」と称したが,隣荘の杭瀬荘では同一地を杭瀬荘内西野新開荒野と呼び,鎌倉後期にはその所属をめぐって相論がやまなかった(水木直箭所蔵文書元亨3年2月日付杭瀬荘雑掌申状案・東大寺衆徒等目安案/同前)。次いで,南北朝期の正平6年4月日付東大寺法華堂目安案ではこの頃,「東大寺法花堂領摂津国猪名庄内長洲村」に杭瀬下司兵衛五郎らが多くの軍勢を率いて乱入し,押妨したという(京都大学所蔵東大寺法華堂文書/同前)。長洲荘では本来住民の在家から間別地子(年貢)を徴収していたが,鎌倉末期までには銭納になっていた。在家の実数によらず,雑掌が毎年定額の間年貢を請け負った。南北朝期の建武年間頃は年貢は35貫文で,東大寺の荘園経営は住民から遊離して形骸化しつつあった。室町期,「満済准后日記」応永34年12月10日条には東大寺法華堂衆が「摂州長洲庄」の直務支配を求める訴訟のため閉籠したとある。荘務を地下所務としたところ,寺用分の法華堂への員数が不足したらしい。室町期には当荘はしばしば守護段銭に苦しんだが,戦国期の永正5年7月24日付摂津守護細川高国安堵状には「当寺領摂州河辺郡内長洲庄野地前田事,任先々下知之旨,当知行不可有相違候」と東大寺法華堂は先述の野地村を安堵されており,荘園支配は維持されている(京都大学蔵東大寺法華堂文書/同前)。ところで,鴨社では御厨内に灯炉堂や温室(湯屋)を持ち,住持に経営させていたが,南北朝期の嘉暦元年9月,「摂津国長洲御厨灯炉堂同教地温室等」を大覚寺覚海上人に寄進し,万雑公事を免除して,その経営を事実上現地の大覚寺にまかせた。これと同時に,長洲御厨の代官左兵衛尉信員,沙汰人の執行範資ら6人,番頭の沙弥正円ら15人に連署起請文を提出させ,大覚寺の尊重と御厨内の治安を誓わせている(大覚寺文書/同前)。沙汰人中には執行・惣追捕使・公文・北荘司・南荘司・小使が含まれているが,惣追捕使貞範と執行範資は播磨の赤松則村の子息で,御厨内の海上活動の拠点としての尼崎を守備させたのであろう。番頭は一種の役人ではあるが,領主の代理人である沙汰人とは区別される地下者といえる。南荘・北荘の区分については鴨社領のうち鎌倉期以降には北に位置する長洲一帯を北荘,大物と尼崎を含む一帯を南荘と分けて支配していたのであろうか。鴨社領長洲付近には中世後期は長洲村と呼ばれ,大永8年4月5日付伊貫奉書には「鴨御祖太神宮領長洲村駕輿丁事」とあり,48人の駕輿丁が置かれ,鴨社への臨時課役が免除されていたという(西村弥市右衛門文書/同前)。当時の長洲の商工業者・交通業者・漁業経営者たちは駕輿丁座を作り鴨社の保護のもとに営業活動を行っていたとみられよう。同時期の長洲駕輿丁礼銭定(同前)には「なかすの庄天満宮かよちやう儀申定事」とある。現在,長洲天満宮の所在する尼崎市長洲本通3丁目から長洲中通2丁目にかけては,江戸期の集落も認められ,長洲貴布禰社もあることから,鴨御祖社領長洲村が存在した所と考えられる。天満宮の南と西にわたる隣接する旧大字長洲字石ノ戸には石ノ戸包含層跡があり,奈良期から室町期の多量の土師器片と瓦器などの遺物が出土した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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