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西宮町(近世)


 江戸期~明治22年の町名。武庫郡のうち。西宮町方・浜方の総称。西宮村ともいい,江戸中期からは西宮町が公称化した。もと豊臣氏蔵入地。はじめ幕府領,元和3年尼崎藩領,明和6年からは幕府領。高は,「摂津高改帳」では西宮村2,073石余,享保20年摂津国石高調では西宮町1,982石余・西宮浜724石余で計2,706石余,「天保郷帳」では西ノ宮町2,792石余,「旧高旧領」2,484石余。なお,「旧高旧領」では,このほか西宮町方・浜田立会新田9石余が見える。尼崎藩領時代は陣屋が置かれ(現戸田町)藩役人が町政を担当,幕府領時代は陣屋を改築した勤番所で大坂町奉行所から派遣された与力・同心と地付同心が町の庶政,奉行所との連絡にあたった(西宮町誌)。ただし,年貢など地方支配は,幕府代官が担当した。また,町方・浜方に庄屋各1人,年寄は町方2人・浜方数人が任命され,町政を補佐した。西国街道沿いに伸びた町方は,寛文元年西宮町御検地帳写では,社家町・釘貫町・中之町・鞍懸町・久保町・石才町・東之町・馬場町・図子之町・裏之町・宮武町の11町からなり,のち市庭町・浜脇町・今在家町・与古道町が加わり15町となる。また,町方には鷲林寺新田・柏堂新田・守具村といった枝郷があった。17世紀後半から酒造業を中核に町の南東部海岸方面に発展した浜方は浜之町・浜鞍掛町・浜久保町・浜石才町・浜東町の5町からなる。寛文元年西宮町御検地帳写によれば,名請人250,うち肩書き・屋号を持つ商工業者24,残りはわずかな高を所持する農商兼業者と推定される(西宮市史2)。正徳元年の家数1,249・人数6,852,延享3年の家数1,410・人数8,484,明和6年の人数は江戸期最高の9,778(西宮市史4)。天保13年では町方の家数417・人数2,194,浜方の家数1,342・人数5,525(西宮町誌)。西宮の旨酒は室町期から知られていた(尺素往来)が,江戸期になると上質の上方酒への需要が急増し,池田・伊丹の酒造業者が江戸積みに成功して発展した。それでも江戸初期に19株だった西宮の酒屋株は,干鰯屋や廻船問屋の参入によって元禄10年79株,享保9年には82株と急発展。その後,宝暦4年の幕府酒造政策変更もあって,西宮町の酒造業者の中には今津・灘目の新興酒造地に移転したり休廃業するものが相次いで,明和7年には32株にまで落ち込んだが,天明8年以降は44株で固定された。もっとも,株数減がそのまま生産量減にはならず,文久元年1株当たり平均生産高は1,232石と文字どおり千石造り蔵が多くなった(西宮市史2)。なお,天保年間に宮水と呼ばれる酒造用水が雀部市右衛門や山邑太左衛門により発見され,灘の酒造家はこぞって宮水地帯に井戸を持った。文久3年には西宮浜方の者が灘目の酒造業者に水樽3万余を売ったという(同前)。酒の江戸積みは,はじめ菱垣廻船に木綿などと混載したが,17世紀中頃には酒荷の樽廻船も生まれ,宝永4年酒造仲間の援助で西宮に樽廻船問屋(はじめ10軒,安永元年から6軒)ができた。また,輸送速度を競う番船制度があり(明治10年代に消滅),荷主・船主・船頭以下水主に至るまで一体となって競うさまは,錦絵に描かれるほどであった。戎神社が本来漁民の神であったことが示すように,西宮の漁業は江戸期になっても鯛が「御前の浜の桜鯛」などと佳賞された(本朝食鑑)ほか,宮じゃこと呼ばれた鰯漁も盛んで,享保19年の漁船総数144にのぼった(神戸市史2)。西宮漁民は江戸初期から江戸湾や房総半島に出稼ぎ・移住を行い,先進漁法をもって関東の漁業と商業に貢献した(安房郡水産沿革史)。西宮沖のみならず房総産の干鰯は,菜種・綿・米の特産地帯である武庫・川辺・有馬3郡の玄関口西宮に多くの干鰯問屋を生み,宝暦10年には30株を数えた(西宮市史2)。西宮宿には幕府公定の人足25人・馬25匹が置かれ,鞍掛町の馬借で宿駅業務を行った。尼崎藩領時代は助郷をもたず,同藩からの手当銀と周辺5か村から交替で差し出される人足役で賄ったが,人馬需要の増加で上知後の明和7年には周辺33か村に助郷役を課すことが認められた。のち,天明3年武庫・川辺郡69か村に加助郷役を課した。旅宿としては,中ノ町に本陣神成屋,脇本陣麻屋・壺屋,このほか旅籠屋は延享3年52軒,幕末には約100軒(老の思ひ出)あった。西宮の経済的発展に関しては,尼崎藩領時代西宮銀札引替所による同藩発行銀札の支配や,幕末期の西宮町惣会所・商人・酒造業者の発行する両替手形(私札)の影響が大きかった。町方・浜方の職業構成を延享3年の書上(西宮市史3)で見ると,その軒数は質屋72・古手屋102・旅籠52・茶屋26・造り酒屋32・休み酒屋15・畳屋5・大工7・鍛冶屋4・紺屋2・米屋21・檜物屋3・樽屋42・木薬屋3・医師21・材木屋5・干鰯屋16・油屋18・荷物問屋12など。神社は,戎神社・沖恵美須神社・松原神社・百太夫神社・住吉神社。戎神社は漁業神だったが,門前に市場が発達したので,今に市庭【いちにわ】の町名をのこすとともに,市の神としても各地に分社された。戎社は,本来広田社摂社であったが,中世以降本社をしのぐ隆盛を示し,明治7年社名も西宮神社と定まり,明治8年広田社からの分離独立を公認された。寺院は,臨済宗海清寺・六湛寺(天正年間の兵火により廃絶,寺地は茂松庵と如意庵が管理),積翠寺・聖乗院(明治初年積翠寺に吸収される)・順心寺,浄土宗正行寺・法安寺・円福寺・西蓮寺・西安寺,浄土真宗正念寺・信行寺,真言宗円満寺。西宮が海陸要地であったため,海防の急が叫ばれた文久3年勝海舟の建言で兵庫・今津などとともに砲台が築かれた。長州戦争に際して,幕府と萩藩双方の軍事拠点となった西宮では,困窮した町民による慶応2年の打毀がたちまち周辺に拡がり(幕末珍事集),第2次長州戦争失敗の一因となった。明治5年兵庫県第7区に所属。同15年の戸数2,510・人口1万978,うち農薪炭業125・漁猟587・職人力役757・農商兼業2,484・商業1,046・行商528,田179町余・畑143町6反余・宅地57町3反余,物産は麦656石余・菜種56石余・大豆96石余・綿135貫・清酒6万669石余,諸魚1,267円余,西洋形帆船6・和船1,000石以上1・同100石以上2・漁船171(西宮町誌)。慶応2年浜東町が1~3丁目に分離したため,幕末・明治初期の西宮は町方15町・浜方7町と鷲林寺・柏堂【かやんどう】の2新田からなっていた。明治8年町名を廃し92の字を制定。旧与古道町・東之町・浜東之町1~3丁目からなる字一号地,旧石在町・久保町・浜石在町・浜久保町からなる字二号地,旧鞍掛町・中ノ町・釘貫町・馬場町・図子町・社家町・浦ノ町・浜之町・浜脇町・浜鞍掛町からなる字三号地などの字名は公称として用いられたが,実生活上では旧町名と混用された。明治5年法安寺内に設けた町立学校を母体に,同10年西宮小学校を字二号地に開校,同15年の児童数526。明治11年武庫郡役所(同13年武庫兎原郡役所と改称)を字二号地(旧浜久保町)に開設,同14年字三号地(旧鞍掛町)に移転。明治13年字二号地に西宮病院設立。西宮警察署(西宮警察出張所が明治10年改称)は字三号地にあって武庫郡東部全域を管掌。同18年酒造業者らが中心になって恵美酒銀行を字三号地に設立。同22年度西宮町国税総額37万615円余のうち酒造税35万9,614円余。同22年市制町村制施行により当町飛錯地は今津村・芝村に編入され,芝村・中村・越水村・森具村・越木岩新田・津門村の各飛錯地を加え,単独で自治体を形成。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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