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東二見村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。播磨国加古郡のうち。もと豊臣氏蔵入地。慶長5年姫路藩領,元和3年明石藩領,寛永9年幕府領,文化13年からは武蔵国忍藩領。村高は,「正保郷帳」892石余うち田787石余・畑105石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,176石余。海岸沿いに高砂道が通る。延宝年間の浦方運上銀2貫433匁1分(加古郡誌)。臨済宗瑞応寺は黒印寺領10石(播磨鑑),天正元年現在地に再建と伝え,樹齢400年を超すソテツの木がある(明石の文化財)。現在は大寺と通称するが,本来は親寺で,観音寺・長徳寺・徳源寺をとりまとめる寺であった。観音寺は二見最古の寺といわれ,古記録に南海山法船寺,文明4年3月二見村横河勘解由公孝建立とある(加古郡誌)。「播磨鑑」には,臨済宗観音寺は黒印寺領10石,郡順礼27番。瑞応寺や観音寺には二見地域の歴史を物語るものが多い。年代不詳の古い仏足石,安永年間二見漁場回復に努力した二見三義人の墓,安政年間に二見築港に功労のあった干鰯屋忠兵衛の墓がある(明石市史)。また室町期から二見に住み姓を横河と称した豪族で,姫路藩主池田輝政に仕えた横河重陳の墓は観音寺にある(明石の文化財・明石の史跡)。神社は御厨神社がある。社伝によると神功皇后三韓遠征の際,二見浦に船を寄せ,この岡で船子を加え,兵糧を集めたとき人御饌を調進したことから御厨という(明石市史)。長暦年間に西二見村との間にある卯の花の森に移り,海岸沿い東部の君貢神社(鬼貢神社)から八幡宮と天満宮を遷座した。この頃から二見の鎮守として信仰される。もとは海雲寺が社僧で,境内に菅相院(円林坊・常光坊),西二見村に威徳院(最蔵坊・宝積坊)の4坊があったが,神仏分離令によって菅相院は廃された。拝殿の壁に帆前船の板絵額がある。江戸末期頃四国の金毘羅参りをする客を二見の船が大坂から丸亀まで送っていたが,その船主たちは海上安全を祈って帆前船の模型を奉納した。さらに境内には,牛の神様である霊牛神社,安永年間の三義人の碑もある(明石の史跡・明石市史)。漁船数は,延宝年間76,寛保2年40。渡海船は天保年間頃西二見村と合わせて16。明石郡の林村や,淡路,加古郡との漁場の争いなどからも漁船は減少(明石市史)。綿は加古郡でも多く生産され,当地には糸紡師のまき屋が多くあった。また新田開発や農業の発展により購入肥料の需要が増え,木綿の積出し,干鰯の購入などから港の整備が必要となり,町民・漁民の力で,干鰯屋忠兵衛が中心になって忍藩の許可を得て築港工事を行った。安政5年に二見民衆港は完成し,渡海船(木綿の積出し,淡路への干鰯買いなど)や漁船も多く(同前),加古川と明石の中間の港として栄えた。江戸期にあった村内の寺子屋を廃止し,明治6年から瑞応寺内で双見小学校を開校,同13年頃まで本堂を教室とした。のちに,同校に双鑑【ふたみ】小学校(西二見村)を合併。明治7年警察屯所・郵便局を設置(加古郡誌)。同12年の田65町余・畑30町余,同14年の戸数603・人口2,310(播磨国地種便覧)。同22年二見村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7395432