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兵庫津(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える津名。摂津国八部【やたべ】郡のうち。兵庫島・兵庫関などとも呼ばれた。兵庫津の初見は徳治2年正月7日付北条業時施行状に「八坂法観寺釈雲上人申,摂津国三ケ所〈一州・兵庫・渡辺〉商船津料事」とあるもので,兵庫津など3か所で徴収する商船の津料(目銭)管理を釈雲上人が請負っている(法観寺文書/尼崎市史4)。次いで,延慶元年12月27日付伏見上皇院宣によって「摂津国兵庫島升米」が東大寺八幡宮に寄付されることとなり,上船からは石別1升の米,下船からは置石を徴して島の修固を実施し,残りは東大寺顕密御願料所に宛てられた。奈良期以来,国家が経営してきた当港の維持管理が同寺に委ねられたことになる(東大寺文書/神戸市史資料1)。東大寺では翌年2月に「兵庫関之雑掌」を補任して経営に当たっている(京都大学所蔵文書/同前)。一方,商船津料(目銭)は東大寺東塔の修覆・住吉社の造営・東大寺大仏殿払葺料など時に応じて寄付されていたが,南北朝初期の暦応元年10月19日付高師直施行状によれば「興福寺修造料摂津国兵庫島商船目銭」を興福寺雑掌に引き渡すよう指示しており,ここに升米・置石を取る東大寺の兵庫北関に対して興福寺の兵庫南関が確立された(春日神社文書/尼崎市史4)。また,弘安8年には西大寺叡尊が「兵庫」の安養寺で遊女1,780人に持斎戒を授けたほか(金剛仏子叡尊感身学正記/西大寺叡尊伝記集成),一遍上人は布教の末に正応2年8月に兵庫の阿弥陀堂で没しており(一遍聖絵/続群9上など),これらの宗教活動は当地の港町としての活気を十分伝えている。南北朝内乱期には付近一帯が湊川合戦の戦場となるなど影響を受けたが,内乱が落着した後は経済活動も軌道に乗り,応永30年8月4日付兵庫問丸請文には当地の問丸として孫太郎・光円・道有らの名が見える(東大寺文書/神戸市史資料1)。室町期には対明貿易の拠点ともなり,明船入港の時は足利義満が下向するなど,貴顕の往来も相次いだ(教言卿記応永12年8月3日・同13年5月9日条など)。文安2年の「兵庫北関入船納帳」によれば,兵庫津には島上・匠辻子・北中辻子,磯・松や辻子・能福辻子・かちや辻子・塩屋辻子などの町名と思われる地名が見えて,市街地の形成が窺われる。文安2年には摂津・播磨・備前・讃岐・淡路・阿波・安芸など16か国の船が延べ約1,960回も入港しており,米をはじめ塩・雑穀・榑・魚・藍などの積荷が確認される。応仁の乱以降,大内氏の侵攻,三好氏の進入など戦国の争乱へと続いて,兵庫は大きな打撃を受け衰退した。天正8年,池田恒興(信輝)が花隈城攻略の功により織田信長から当地を与えられて兵庫城(現兵庫区中之島1~2丁目付近)を築くに至って,当地はその城下町として整備されたが,同11年には羽柴秀吉の直轄地となった。天正11年7月晦日付秀吉船役請取状では「兵庫船やく七月分」として300貫文,同10月8日付秀吉船役請取状では9月分の「兵庫津船役」220貫文が納入されており,また同19年兵庫町諸座公事銭算用状によれば天正11~19年の公事銭合計987貫余などとあって,再度,港湾として活況を呈しつつあることが知られる(棰井文書/神戸市史資料1)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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