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兵庫津(近世)


 江戸期~明治12年の津名。八部郡のうち。兵庫の町および後背地帯の総称で,単に兵庫とも称した。もと豊臣氏蔵入地。元和3年尼崎藩領,明和6年からは幕府領。高は,「摂津高改帳」では兵庫地子500石余・同正直屋やしき分22石余・同兵庫川西2,137石余・同兵庫川東466石余とあり合計3,126石余,「元禄郷帳」(神戸市史資料2)3,638石余,「天保郷帳」4,295石余,「旧高旧領」4,375石余。なお,「旧高旧領」ではこのほかに兵庫津地方ほか3か村立会新田7斗余が書き上げられている。兵庫津は石高支配の上では市街地にあたる地子方(浜方)と,周辺の農村部にあたる地方に分けられた。「摂津高改帳」での兵庫地子・同正直屋やしき分が地子方,同兵庫川西・同兵庫川東が地方に相当する。また,江戸中期の石高の急増は,地方における今和田新田などの新田開発によるものと考えられている。これら石高支配,特に年貢・諸役負担などについては幕府領期に主に京都五条または大坂谷町の代官所が管轄した。これに対して地子方を中心とする住民支配や町政一般については,尼崎藩領期は藩の奉行が,幕府領期は大坂町奉行が管轄した(御順見御越之節諸事心得/神戸市史資料2)。ちなみに,現場の町政は本丸跡の勤番所(もと陣屋)において町奉行下の与力が担当した。なお,地子方は40数か町の個別町から成り,地域的に岡方・北浜・南浜の三方に分けられた。町民の自治組織として,地子方三方はそれぞれに惣会所(岡方は小物屋町,北浜は鍛冶屋町,南浜は新在家町)を持ち,選挙で選ばれた名主が出勤し,各町の年寄・町代(総代)を指揮する体制が整っていた。また,3名の名主は月番で陣屋(勤番所)に出務し町政に参与した。なお,地方には世襲の庄屋・年寄があった。兵庫津は瀬戸内海水上交通の中継地点として,また西国・北国・江戸行きの船舶寄港地として,さらに大坂廻送荷物を瀬取りし大坂河口まで運ぶこと,幕府御城米・諸藩廻米の点検を行い,その保管,廻米については売買をするなど重要な役割を担っている。とくに江戸中期以降蝦夷地との交易が開け,北前船によって諸産物がもたらされ,浜先で売買された。幕府領になってからは,これらの売買は株仲間によって行われ,とくに三仲間といわれた諸荷物問屋・穀物仲買・干鰯仲買が商業交易の中心となった。その代表的商人である北浜の鍛冶屋町に住した北風荘右衛門家は,兵庫津十二浜(島上町・匠町・松屋町・鍛冶屋町・宮前町・宮内町・北宮内町・川崎町・西出町・東出町・網浜・東川崎町)の倉庫群を支配し,幕府の設けた函館産物会所出張所の責任者にまでなった。また,蝦夷地交易に活躍し,ロシア艦に捕らえられても屈せず日露間の親睦に貢献した高田屋嘉兵衛も北浜・西出町に本拠を置いて活躍した。さらに兵庫津の南浜には日本各地に例を見ない浜本陣と呼ばれた西国大名の宿泊・休息,ならびに国産品売買を専門に扱う商家があった。幕末には9軒を数え諸藩の保護をうけて盛大に営業した。一方,陸上交通では西国街道が津中を横切り,宿本陣・脇本陣が岡方に並び,市街は都賀堤と呼ばれた堤防で囲まれ,外側に湊川から分流した水を流し,外部と遮断されていた。この堤防は天正10年池田信輝・輝政父子が兵庫城築城の時,城下町形成のため作られたもので,明治8年まで存続した。市街地の発展に関しては,慶長元年の地震によって「挙村五百余家没……人畜財産尽焼」という被害のあったことが,朝鮮通信使の一員であった慶七松「海槎録」に記されている。復興に時間がかかったが,享保年間の南条昌慶覚書(神戸市史資料2)によれば,町数44(岡方27・北浜11・南浜6),家数本家1,868(岡方732・北浜652・南浜484)・借家1,727(岡方809・北浜473・南浜445),人数1万9,766(岡方7,819・北浜6,269・南浜5,678)とある。また,同書によれば,田畑高2,626石余・新田高145石余・地子高1,012石余,牛85・馬25,船780(北浜364・南浜416),寺33・社11,住人の職業構成は水主2,393(北浜1,043・南浜1,350)・酒屋40・百姓230・屋大工63・鍛冶66・樽屋50・船大工162・木挽36・船問屋76・漁師210・旅籠屋31・本陣5・修験者10・類族10とある。天明2年では家数4,467(岡方1,585・北浜1,587・南浜1,295)・人数2万1,341(岡方9,472・北浜6,865・南浜5,004)とある(安田家文書)。天保9年の御順見御越之節諸事心得(神戸市史資料2)によれば,地方2,972石余(うち今和田新田58石余)・反別241町6反余・取米1,624石余,地子方1,328石余・反別23町2反余・取米814石余,竈数6,884(本家2,158・借家4,726)・人数1万9,791,牛43,船数699(岡方23・北浜425・南浜251),酒造株37,社12・寺34。また,番所は勤番所のほかに和田船見番所があり,町数は45で,岡方は相生・湊・佐比江新地・江川・木戸・木場・小物屋・北仲・南中・魚棚・磯之・新・切戸・逆瀬川・東柳原・西柳原・門口・三川口・永沢・西宮内・西大路・富屋・鹿屋・塩屋・鳥屋・細辻子・神明・小広の28町と算所村,北浜は島上・匠・松屋・鍛冶屋・宮前・宮内・北宮内・川崎・西出・東出・東川崎の11町,南浜は船大工・関屋・新在家・出在家・今出在家・和田崎の6町からなっている。明治元年岡方を岡組,北浜を北組,南浜を南組と改称。明治初年の兵庫津中明細録(同前)では,家数4,962(竈数7,418)・人数2万93,津内48町1か村とある。明治初年福原町が起立,逆瀬川町が北逆瀬川町・南逆瀬川町となる。明治5年坂本村の一部(仲町部)を編入,上橘通6~7丁目・橘通3~6丁目・多聞通2~8丁目・仲(中)町通1~6丁目・古湊通1~4丁目が起立。同年第2区に所属,各町は兵庫1~3番組に属した。同6年佐比江新地が佐比江町,算所村が算所町,西大路町が江川町,木戸町・木場町が戸場町,塩屋町・鳥屋町・細辻子町が西仲町,小広町が神明町となる。同7年番組制を廃止。同年坂本村の一部を編入。同12年神戸区となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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