細川荘(中世)

鎌倉期~戦国期に見える荘園名。播磨国三木郡のうち。三木市細川町一帯。「明月記」建仁元年10月25日条に「出過天王寺,入宿所……仍渡之,但此宿細川庄成時沙汰也」と見える。当荘は,藤原俊成が娘九条尼に譲り,九条尼は権勢を求めて藤原兼子(卿二位)に譲ろうとしたが,卿二位が伝領は望んでいないと答えたので弟藤原定家に譲っている(明月記建暦2年8月8日条)。この伝領は領家職であったらしい。地頭職は源実朝の和歌師範としての関係で定家が拝領しており(冷泉家文書/鎌倉幕府裁許状集),細川荘は定家が領家職と地頭職をあわせ持つ一円所領であり,重要な荘園であった。嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録には蓮華心院領と見え,本所職は安嘉門院・昭慶門院・永嘉門院など皇室が持っていた(竹内文平氏所蔵文書/鎌遺22661)。領家職と地頭職は定家から子為家に譲られるが,為家の死後,その子で二条家をたてた為氏と為氏の異母弟で冷泉家をたてた為相との間で地頭職をめぐる激しい相続争いが起こった。為家は正元元年10月24日の譲状の中で領家職については上臈に一期分のみを譲りその後は為氏に返すこととし,地頭職については為氏に譲ることにしたが,その後為相が生まれたため,文永10年7月24日になって為氏の地頭職を悔返して為相に譲っている。為家の死後,為氏はこの悔返しを認めず,以来正和2年7月20日に幕府が最終的に為相の伝領を認めるまで永い争いが続いた(冷泉家文書/鎌倉幕府裁許状集)。「十六夜日記」は為相の母阿仏尼が幕府の裁許を得るため関東へ下った時の道中記である。以後細川荘は守護不入の冷泉家領荘園として,天正6年別所氏に滅ぼされるまでの乱世を生き続ける。現在,三木市細川町高篠には冷泉家居館跡と伝えられる地があり,おかまえ(お構え)と呼ばれている。なお,冷泉家領細川荘以外にも,山科家が応永3年まで知行した播磨国細川荘(山科家礼記/纂集),大覚寺門跡領としての播州三木郡細川荘御寺方(政所賦銘引付/室町幕府引付史料集成)などが散見される。細川荘には姫路野里とつながりのある鋳物師がいた。文明7年11月15日の大徳寺仏殿鐘銘に「大工細河庄平末次」の名がある。下って,慶長6年12月2日の美嚢郡吉川町法光寺鐘には野里助左衛門政家と並んで「細川庄次郎左衛門尉勝原朝臣平末次」,同年の吉川町東光寺鐘には「三木郡平朝臣末次二郎左衛門」の名が記され(日本古鐘銘集成),また豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては,隣村の「ししみかなや」とともに「ほそかわかなや」に「石火矢」の鋳造が命じられている(芥田文書)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7396123 |