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山崎町(近世)


 江戸期の城下町名。播磨国宍粟【しそう】郡のうち。山崎藩の城下町。山崎ともいう。宝永5年の「播州宍粟郡誌」に「是は一郡の都会なり郡府と言うなるべし」と見える。はじめ姫路藩領,元和元年からは山崎藩領。慶長年間に東の山田村と西の山崎村が一続きとなり,新町を形成した(播州宍粟郡誌)。慶長5年当地を領有した姫路藩主の池田輝政は当町に市日の定書を発し,毎月2・7・12・17・22・27の各日を市日に定めるとともに諸役免除を規定した(山崎町史)。これにより山崎の町場は大きく発展した。元和元年輝政の四男輝澄が3万8,000石を与えられ山崎藩主となると,段丘の中央南端鹿沢に築城を開始した。当時の構想では段丘面南方に城を置き,その南端中央を大手門とし,城の北に外堀を設け,外堀と山麓との間に町家を配し,城下の東に枡形,西端・東北・北に武家屋敷を持つ惣郭の縄張りを基本とする町作りであった。以後城は未完成のまま陣屋となったが,町の基本的な形態は変わらなかった。これによって山崎町は本町,山田村は山田町となり,本町の北に北魚町・紺屋町・富土野町・大雲寺町(寺町)・籠町(茶町,のち伊沢町の一部)が成立した。元和3年には庄屋を町年寄と改め城下町7町を治めさせた。寛永8年山崎藩は佐用郡内の2万5,000石が加増となり6万3,000石に拡大(県史4),これに伴い町場の西に佐用町(西新町)・門前町,東に高野町(福原町)が成立,城下町は10町となった。また,町の中に居住していた農民を山田村に移した。同10年町年寄を5人とする。同17年松井(松平)氏が5万石で入部。町の東・西・北に木戸を設け,町場と藩邸・侍屋敷との間の土橋・中・熊鷹(角鷹)の各口に門番を置いた。同年に町年寄を大年寄と改称,その下に町年寄を置き,大年寄役に有力商人を任命した。慶安初期頃の知行取146・無足87・町中家数305(宍粟山崎の絵図)。慶安2年池田氏が3万石で入部。延宝7年には本多氏が1万石で領主となり,廃藩まで続いた。藩の縮小により城の構えも小さくなって大手門も北に移り町場が拡大した。宝永元年大火があり,そののちに新しく出水町が成立,城下は11町となる。宝暦10年には造り酒屋7・油屋3・米屋20・魚屋2・八百屋2・小間物屋8・薬屋2・紺屋9・鍛冶屋9・大工17・桶屋9・質屋6・両替屋1(巡見使取成覚)。東町の南東の清水口から東隣の安志を経て姫路に通じる道が藩主の参勤交代路となった。また,これと揖保川の東方で分岐し川と並行して南下し揖保郡新宮・竜野に至る道は巡見使が通行した記録がある。町並みは間口が狭く奥行きの広い町家で埋り,道は屈曲が多くしばしば災害が起こった。なかでも火災の被害が大きく,宝永元年には6か町が焼失,享保4年には172軒が焼失。幕末頃旧城下各町は山崎を冠称。明治4年頃西新町・本町・山田町・福原町・富土野町・出水町・伊沢町・紺屋町・寺町・北魚町・門前村が合併して山崎町が成立。門前町域は明治12年門前町の一部となる。明治14年の戸数500・人口2,047(播磨国地種便覧)。同22年山崎町の大字山崎町となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7397217