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在田(古代~中世)


平安期~戦国期に見える地名広瀬郡のうち①在田荘興福寺雑役免(進官免)荘園延久2年の雑役免帳に「右(在)田庄田畠七町」とある公田畠2町9段300歩と不輸租田4町60歩からなり,不輸租田はすべて広瀬寺田であった荘田は広瀬郡16条3・4里,17条3・4里,18条3・4里の計22か坪に散在分布したこの坪付は現在の広陵町南・寺戸・中・三吉のうちにあたる②在田北荘興福寺雑役免(進官免)荘園延久2年の雑役免帳に「右(在)田北庄五町一段 公田畠也」とある荘田はすべて公田畠からなり,広瀬郡14条2里・15条2里の計7か坪を占めたその坪付は現在の広陵町南・広瀬付近にあたる正治2年(弘安8年写)の維摩会不足米餅等定(興福寺文書/鎌遺15590)には「北在田庄米一石四斗八合皆納 餅五十六枚〈定納三十三枚,見三枚〉」と,興福寺維摩会の用途を賦課されている③南在田荘正治2年(弘安8年写)の維摩会不足米餅等定(同前)に「南在田庄土器四十駄」とあり,維摩会の用途を賦課されている④在田荘大乗院門跡領(赤土器作手料所)済恩寺の地にあったため,済恩寺在田荘・箸尾済恩寺荘あるいは単に済恩寺荘ともいった「三箇院家抄」巻2に「竜花院末庄 済恩寺在田庄井関名〈惣八丁六反三百卅ト,添下郡(広瀬郡の誤り)〉」,「在田庄〈是ハハセヲ(箸尾)ノナリ,済恩寺庄之内,広瀬郡〉」とある当荘は大乗院門跡に所属する赤土器作手の料所で,作手集団を率いる兄部【このこうべ】は荘内井関名の負所米3石9斗1升・公事銭175文を給与された寛正5年当時の井関名名主は左近・式部・木田左近太郎の3人であった(三箇院家抄1・寺社雑事記寛正5年12月24日条)赤土器作手は奈良水門郷に居住して春日社の土器を作る水門流と奈良福智院郷に居住して門跡の土器を作る福智院流の2座があった文明初年には福智院座が衰えていたが,文明2年に水門彦九郎が福智院座を再興するというので,門跡ではこれを許し,当荘も彦九郎に宛行われた(寺社雑事記文明2年6月19日・3年10月6日条)この当時当荘には国民箸尾為国の勢力が及び,年貢徴収の実務は箸尾氏が行っている(同前寛正5年12月23・24日条など)なお,このほかに大乗院門跡領済恩寺在田荘もあった




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7397839