斑鳩(古代)

飛鳥期から見える地名。平群【へぐり】郡のうち。①斑鳩。廐戸皇子の居所の地名として「是の皇子,初め上宮に居しき。後に斑鳩に移りたまふ」(用明紀元年正月壬子条),「皇太子,初めて宮室を斑鳩に興てたまふ」(推古紀9年2月条)とあるのが初見。推古紀13年10月条に「皇太子,斑鳩宮に居す」と見えてから,同29年2月癸巳条に「半夜に廐戸豊聡耳皇子命,斑鳩宮に薨りましぬ」とあるまで,廐戸皇子は当地の宮室に居住した。ただし「書紀」に廐戸皇子が推古天皇29年に没したとあるのは,金石文などによれば同30年の誤りであり,大安寺縁起資財帳には,飽浪葦墻宮で病臥していたと伝承する。その後斑鳩宮は子の山背大兄皇子が伝領し(舒明即位前紀),皇極天皇2年,蘇我入鹿・巨勢徳太臣・土師娑婆連らにより焼かれるまで存続した(皇極紀2年11月丙子条)。なお斑鳩には廐戸皇子の子「泊瀬王の宮」(舒明即位前紀)も存在し,飽浪葦墻宮と同所とする説がある。いわゆる太子信仰によって,「上宮聖徳法王帝説」(寧遺下),「聖徳太子伝補闕記」(群書5),「聖徳太子伝暦」(続群8上)以降の諸太子伝や「霊異記」「今昔物語」などにも「書紀」の記述を潤色した記載が見える。狭義の斑鳩宮は現在の法隆寺東院地下遺構を示すとされるが,広義には岡本宮・中宮・飽波葦墻宮(泊瀬王宮)など斑鳩に存在した上宮王家の諸宮を総称した名称であったと推定される。「霊異記」下巻第16話には「大和国鵈鵤の聖徳王の宮の前の路より,東を指して行く。其の路鏡の如く,広さ一町許,直きこと墨縄の如く,辺に木草立てり」と見え,竜田道が官道として整備された状況が知られ,宮殿・寺院とともに斑鳩が都市的景観を有していたことが推定される。天平11年には僧行信の発願により斑鳩宮跡に仏堂が造営されている。これが上宮王院,すなわち現在の法隆寺東院である(東院縁起)。さらに,現在の法隆寺は「斑鳩寺」(推古紀14年是歳条),「伊河留我寺」(法隆寺資財帳/寧遺中),中宮寺は「鵤尼寺」(聖徳太子伝暦,聖徳太子伝私記/続々群17),岡本宮は「鵤岡本宮」(霊異記上4)とも称された。推古天皇14年天皇は廐戸皇子に岡本宮に勝鬘経を講じさせ,播磨国の水田100町を廐戸皇子に施し,皇子はそれを「斑鳩寺」に納入したと伝承される(推古紀14年是歳条)。ただし,施入年代や面積については「上宮聖徳法王帝説」・法隆寺資財帳・「聖徳太子伝補闕記」「聖徳太子伝暦」「霊異記」などに異同が見える。また,皇極天皇2年蘇我入鹿らに襲われた山背大兄皇子らは生駒山中に一度は逃れたが,山を下って「斑鳩寺」で自剄したとある(皇極紀2年11月丙子条)。天智天皇8年には「斑鳩寺」に火災が起こったことが記され(天智紀8年是冬条),同9年にも同様の記事が見えるが(天智紀9年4月壬申条),再建については記事がないため,いわゆる「法隆寺再建非再建論争」が展開されたが,若草伽藍の発掘により現在では再建説が有力となっている。天平10年「鵤寺」に食封200戸が施され(続紀天平10年3月辛未条),年欠の知識等銭収納注文(正倉院文書/大日古編年25)に「一貫鵤寺僧泰鏡知識」と見える。文学においても「万葉集」巻12に「斑鳩の因可の池の宜しくも君を言はねば思ひそわがする」(3020)と詠まれるほか,仏法の永遠性を斑鳩の富雄川の流れにたとえた「鵤の富の小川の絶えばこそわが大君の御名忘られめ」(上宮聖徳法王帝説・霊異記・聖徳太子伝補闕記など)をはじめとする太子信仰の文学的表現として現れることが多く,また和歌の道の象徴としても意識されていた。現在の斑鳩町法隆寺を中心に岡本・三井・幸前にかけての富雄川西岸地域に比定される。平群郡夜麻郷の郷域とほぼ重なる。②斑鳩村。天平19年の「法隆寺東院縁起」,延喜17年の「聖徳太子伝暦」には,「斑鳩村」に宮室を造営したとあり,「霊異記」中巻第17話・「今昔物語」16巻第13話には「大倭の国平群の郡鵤の村岡本の尼寺に,観音の銅像十二体有り」と記される。ただし「霊異記」上巻第4話に「岡本の村の法林寺の東北の角に有る守部山」という表記も見え,混乱している。狭義には現在の斑鳩町法隆寺付近の自然村落を示すと考えられるが,広義には岡本・三井付近の岡本村も含まれていたものか。ちなみに,鎌倉期になると「大和国平群郡斑鵤郷」(聖徳太子伝私記/続々群17)となり,室町期には三室山の北にある椎坂から東を「斑鳩郷」(竜田大明神御事/続群2下)とするものがある。しかし,いずれも明確な行政地名として斑鳩が存在したことを示すものではなく,むしろ聖徳太子による仏法興隆の聖地として伝承されるにすぎない(建保5年5月延暦寺大衆解/鎌遺2315)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7397881 |