生馬荘(古代~

平安期から見える荘園名。平群郡のうち。①胆駒荘。藤原忠実領。「中右記」康和4年4月19日条によれば右大臣藤原忠実は美福小堂に堂領荘として当荘を寄進し,「堂領庄二ケ所〈豊田,胆駒〉」の券文を交付している。②生馬荘。上下両荘に分かれ,上荘は仁和寺宮門跡領,下荘は一乗院門跡領。両荘ともに単に生馬荘と呼称する場合も多い。当荘は厚厳房律師定覚の私領で,平安後期の保安~保延年間頃に一乗院第6代門主玄覚に寄進されて,一乗院門跡領となった。その後領主職(預所職)は定覚から弼得業寛清に譲与されたが,寛清の死後に分割され,全体の3分の2は二分方と称して寛清の子孫が伝領,3分の1は一分方と称して大納言法印尋恵が相伝した(簡要類聚鈔第1)。門跡への年貢公事は両方あわせて御米(年貢米)50石・細美白布20端ほか人夫伝馬役・臨時雑役などであった(同前)。嘉禎2年2月晦日付大中臣国清売券では「大和国平群郡生馬下御庄行清名池原」の家地が売却されており(東寺百合文書メ/鎌遺4935),当時すでに荘が上下に分割されていたことが知られるが,この下荘行清名池原の地は現在の生駒市壱分町の字池原付近とみられるので,一分方が下荘の中心であったものかと考えられる。二分方(上荘)は現在の生駒市俵口町付近にあたるらしい。寛元年間僧寛清の系譜を引く二分方の領主らは荘民と相論を起こして合戦するに至ったため,一乗院門跡では二分方を点定して領主職を没収したという(簡要類聚鈔第1)。二分方(上荘)の領家職は鎌倉末期までに一乗院門跡から仁和寺宮に移り,建武3年11月12日付後醍醐天皇綸旨(仁和寺文書/大日料6‐3)によって「大和国生馬庄」が仁和寺宮に安堵されているのをはじめ,中世を通じて仁和寺宮が知行した(仁和寺文書文明10年8月日付仁和寺当知行不知行所領文書目録)。なお鎌倉期には地頭も補任されていた(興福寺略年代記嘉元2年6月28日条/続群29下)。文永2年11月には藤氏長者の春日詣に際して「生馬庄民等」に馬場院・馬出橋の修造が命じられ(内閣大乗院文書御参宮雑々/鎌遺9394),明徳2年には「鳥見・矢田・生馬三ケ郷」の沙汰人百姓等が足利義満の春日社参の課役を課されているが(明徳2年10月8日付足利義満御教書/春日大社文書1),室町期には生馬両職人と呼ばれた下司根尾氏と公文中村氏がこれらの課役を勤仕する定めであった(応永27年一乗院方坊人用銭支配状/天理図書館所蔵文書,寺社雑事記文明10年11月朔日・16年11月22日条)。なお永享7年3月2日付生馬荘年貢結解注進状(天理図書館所蔵文書)では年貢15石とあり,文正元年後見方納下散用状(同前)には「生馬下庄 拾参石伍斗」とあって,下荘は一乗院門跡坊官が管領したことが知られる。当地は河内国に隣接し,古くは承平元年に河内国交野郡小松寺の金堂を生馬郷住人藤原清光が建立したといい(河内国小松寺縁起/続群27下),鎌倉期には生馬荘住人石若女がその妹の河内国四条郷薬師女と所領相論している事例などからも(東寺文書百合外/鎌遺16229・16251),古くから隣国との交流・通婚が活発であったことがうかがわれよう。応仁・文明の乱では下司根尾氏が畠山政長党に属して没落したらしいが,乱後の文明14年10月には再起を期す政長党が鷹山氏を抱き込んで大和に侵入したため,生馬谷・平群谷・鳥見谷は戦火に見舞われた(寺社雑事記文明10年11月朔日・14年10月30日条)。また永正3年には赤沢朝経の侵入に抗して生馬の地侍衆が郡山城に入り,翌年にはこの戦乱の余波が当地にも及んだ(多聞院日記永正3年9月22日・4年11月17日条)。永禄10年にも松永久秀に属する地侍田原坂上氏が筒井方と生馬谷で戦ったという(同前永禄10年10月22日条)。下って天正8年10月28日付仁和寺領指出目録写(山科家古文書2/織田信長文書の研究下)には仁和寺宮門跡領として「一,四拾八石九斗壱合五夕 生馬上庄」と記す。なお応永26年筆写の「河内国小松寺縁起」所収久安元年2月日付近衛天皇綸旨写によれば「生馬郷」が小松寺修二月会料に寄付されたというが,同文書は検討を要する(続群27下)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7397934 |