岩田村(近世)

江戸期の村名。式上郡のうち。はじめ織田有楽斎長益領,元和元年からは戒重藩領。村高は,「慶長郷帳」「寛文郷帳」「元禄郷帳」ともに984石余。元禄3年の人数584。宝永元年戒重藩の藩庁所在地戒重村が藩領の中心から離れ最南端であり,年貢収納等に不便なことから,藩庁移転が考えられるようになった。その際に候補地となったのが岩田村で,藩領の中央に位置するばかりでなく,上街道筋にあたる交通に便利な場所であると幕府に屋敷替(陣屋の移転)を願い出て,認可された。翌2年当村内で縄張りが行われ,同3年岩田御屋敷の地鎮祭にこぎつけている。当時の岩田村は100軒余の村で,西垣内付近が集落の中心で,上街道の東側にも若干の住人があった。藩は陣屋敷地分として7町6反余・高115石余の田畑を村方から借上げ,毎年地租・作徳米として165石を藩から土地所持者に下付し,改めて貢租として取り立てる仕組みになっていた。ところが地鎮祭後,縄張りの中に隣郷の柳本藩領茅原村の田畑が入り組んでいたことが判明,問題となる。同地は文禄5年頃両村を支配していた領主新庄直頼が水利に恵まれない岩田村のため茅原村内に東池を掘らせ,その替地(8反余・高11石余)とした所であった。話はこじれそうになったが,柳本藩の大庄屋らが掛け合って,ようやく宝永3年落着,縄張りも完成した。正徳2年から数年間工事が続けられたが,藩主長清の死などがあり移転工事ははかどらなかった。のち元文2年工事が再開され,寛保2年御殿が完成,延享2年藩庁を移転した。この間,正徳3年戒重藩は幕命で岩田村を芝村と改称(芝村藩主織田家記録摘要)。なお宝永2年版「御林武鑑」にすでに藩邸所在地が芝村と見える。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7398184 |