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宇智郡


飛鳥期から見える郡名。文武天皇2年,「車駕宇智郡に幸す」と見える(続紀文武天皇2年2月丙申条)。続いて,大宝2年に「大倭国吉野・宇知二郡百姓に復す」(同前大宝2年6月壬寅条),慶雲3年に「大倭国宇智郡狭嶺山に火あり,撲ちて之を減す」(同前慶雲3年7月乙丑条),「有智郡女四比信紗,並に身を終るまで事勿らしむ,孝義を旌せるなり」(同前和銅7年11月戊子条)などとある。正史以外では,和銅2年10月25日弘福寺田畠流記帳(円満寺文書/寧遺中)に,弘福寺(川原寺)が当時全国に所有していた寺領の水田158町余,陸田49町余を記したうちに「内郡二見村陸田陸段」とある。天平2年大倭国正税帳(寧遺上)の断簡にも「宇智郡欠頴」1,256束と見える。これは国内総計の部分で,養老4年宇智郡において頴稲の欠損が1,256束あったことを知り得るのみである。また,「令集解」仮寧令在京諸司給仮条所引の古記にも宇智郡の記載が見える。古記は天平10年ごろに作られた「大宝令」の注釈書で,令文に在京諸司の官人は5・8月に15日間の田仮,すなわち農時休暇を与えられる定めとなっている。その場合土地の事情によって植付けや刈入れの時期が違うので便宜に随うよう規定されているのを説明するため大倭国諸郡の場合を例示している。それによると,添下・平群郡では4月に植え付け7月に収穫するが,宇智郡や葛上・葛下郡ではそれより1~2か月遅く,5~6月に植え付け,7~8月に収穫するとある。また,宇智郡は紀伊国への要路にも当たっており,大宝元年(万葉集55・1680・1681),神亀元年(同前543),天平神護元年(続紀天平神護元年10月癸酉条)などに天皇が紀伊行幸の途中,当郡を通過したことが知られる。聖武天皇とその夫人県犬養広刀自との間に生まれ,光仁天皇の皇后であった井上内親王は,宝亀4年に天皇を呪うまじないをしたという理由で,皇太子他戸親王とともに位を廃されたが,さらに天皇の同母姉に当たる難波内親王をも厭魅したことが明らかになり,2人は「大和国宇智郡没官之宅」に幽閉されたという(続紀宝亀4年10月辛酉条)。長禄年間の成立とされる「霊安寺御霊大明神略縁起」(五條市史上)によれば,2人は当郡の「須恵の庄」に居住していたとされ,約2年後の宝亀6年4月,日を同じくして幽閉のまま奇怪な死を遂げた(続紀宝亀6年4月己丑条)。翌7年には20日ほどの間,毎夜瓦石や土塊が内竪曹司や京中ところどころの屋上に落ち(続紀宝亀7年9月庚辰条),同8年の冬には雨が降らず,井戸水は涸れ,木津川や宇治川も歩いて渡れるほどに減水した(続紀宝亀8年12月乙巳条)。これらは井上内親王の怨霊によると考えられたらしく,同年12月には井上内親王の墳を改葬して御墓と称し,守冢1烟を置いた(続紀宝亀8年12月乙巳条)。延暦19年7月になると,皇太子早良親王に崇道天皇の追称を与えるとともに,井上内親王を皇后に復し,その墓を山陵と称させ,宇智郡戸1烟をしてこの陵を守らせ,葛井王を遣わして復位のことを山陵に告げさせた(類史25帝王5崇道天皇)。「延喜式」諸陵寮に「宇智陵」として「皇后井上内親王。在大和国宇智郡。兆域東西十町。南北七町。守戸一烟」とあり,現在の五條市御山町南部に比定されている。なお,同陵北方には他戸親王の墓も治定され,「大和志」は「庶人墓」とする。井上内親王・他戸親王の配流の地となった当郡は御霊信仰の中心地となり,郡内各地に御霊神社が鎮座する。また,藤原長岡は晩年,「宇智郡山家」に隠居したとあり(続後紀嘉祥2年2月辛卯条),貞観8年には「大和国宇智郡阿陁郷」に所在した藤原良継の墓(武智麻呂の墓ともいわれる)に詔して守冢の徭丁12人を置いた(三代実録貞観8年10月23日条)。藤原氏と宇智郡との結びつきは強く,前山寺(栄山寺)は藤原武智麻呂・仲麻呂らによって創建され,当郡内には栄山寺領が多く存在した(栄山寺文書/五條市史下)。平安期の「延喜式」神名上には「宇智郡十一座〈並小〉」と見え,また「和名抄」には大和国15郡の1つとして「宇智郡」が見え,阿陁・賀美・那珂・資母の4郷を載せる。栄山寺文書(五條市史下)などによれば,当郡内には河南・佐味・重坂・長盖・近内・真土・阿陁・下野・荒木坂・堤・大岡・郡・野川などの条名や,灰焼・田原・細山などの里名が見え,特殊な小条里が施行されていた。「延喜式」神名上には大和国宇智郡に「宇智神社」が見え,現在の五條市今井4丁目に比定される(大和志)。当郡に関係する氏族としては,阿陀鵜養(古事記神武段,神武即位前紀戊午年8月乙未条,万葉集2699),田井伊美吉(正倉院文書/大日古編年25),四比(続紀和銅7年11月戊子条),山代忌寸(山代忌寸真作墓誌/寧遺下),楊貴(楊貴氏墓誌/同前),二見首(姓氏録大和国神別),栄山忌寸(同前左京諸蕃上),坂合部首(同前大和国皇別),坂合部宿禰(同前右京神別下),阿多御手犬養(同前)らがいる。平安末期当郡は大和国衙にかわって興福寺支配下に入り,中世を迎えた(陽明文庫所蔵兵範記裏文書/平遺3293)。しかし,南北朝期に至って栄山寺が長慶天皇の行宮となるなど南朝の勢力下に置かれて,興福寺の手を離れ,さらに北朝方では南朝への対抗から紀伊国守護大内義弘を郡内に入部させたうえ,当郡を幕府の管轄として紀伊国に所属させたという。応永2年4月に足利義満は当郡を春日社頭大般若経真読料所にあてて春日社に寄進,一乗院門跡がこれを管領することとなった(応永2年4月17日付足利義満御判御教書など/京大一乗院文書)。しかし,すでに郡内には南北朝期から吉野川の河南地域を中心に紀伊の高野山の勢力が浸透していたためもあって,一乗院門跡の支配も思うに任せず,やがて河内国守護畠山満家の頃にその分郡となり,被官遊佐美作守が郡守護代に補任されて(観心寺文書応永16年3月30日付畠山満家寄進状・同日付遊佐美作守遵行状/大日古),永享年間には守護畠山氏から郡内に守護段銭も賦課されている(栄山寺文書永享3年2月5日付遊佐国盛遵行状/五條市史下)。長禄年間に幕府に対立する畠山義就が守護畠山政長を退けて河内国を制圧すると,興福寺は当郡の支配を回復し,寛正5年には一乗院門跡が宇智郡政所を介して郡内の所領に寺門段銭を課しているのが知られる(寺社雑事記寛正5年4月29日条,寛正6年将軍御下向寺門段銭帳/成簣堂大乗院文書)。興福寺支配は文明初年頃までは保たれたが,再び河内守護畠山氏に併呑され,明応6年8月には紀伊から河内に進出した畠山尚順に対する前衛として大和の衆徒古市澄胤に当郡を知行させている(寺社雑事記明応6年8月9日・9月17日条)。天文年間にも河内守護畠山氏の分郡として存続,一時は守護代木沢長政の勢力も及んだ(犬飼正氏所蔵文書9月27日付木沢浮泛書状/五條市史上)。なお,豊臣秀吉は当郡を高野山に安堵している。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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