戒重村(近世)

江戸期~明治22年の村名。式上郡のうち。はじめ織田有楽斎長益領,元和元年からは戒重(のち芝村)藩領。村高は,「慶長郷帳」「寛文郷帳」「元禄郷帳」ともに282石余,「天保郷帳」284石余。織田長益は当地に陣屋を構えたといわれるが,長益は京都に居住,家臣団を在地に分散しており陣屋を構えた形跡はうかがえない。元和元年長益領は三分され,当村は四男織田長政の領有に属した。長政ははじめ山辺郡山口村(現天理市杣之内町)に仮住いし,やがて中世戒重氏が当地に築いた堀や土塁をたくみに用い陣屋を構築,各地に分散していた家臣を陣屋まわりに集住させた。元和4年にはほぼ完成し,藩主・家中が移住するが,その間百姓の屋敷(21筆・7石余)を収め,高29石余の替地を与えた。追われた百姓らは農耕を続ける者と商売を始める者とに分かれた。のち初瀬街道と大御門の分岐点にあたる札ノ辻を中心に街村としての新町が形成され,領内の商人らも集まった。明暦4年の新町屋敷割では24軒の住人があり,酒屋・指物屋・魚屋・桶屋などもあった。新町の住人は寛文年間85軒,延宝年間60軒。また貞享年間には藩士も地方知行から城下集住に切り変わり,陣屋まわりに武家屋敷が70~80軒を数えた。延享2年藩主織田輔宣は,当村が領内最南端にあり,年貢の徴収も不便であるとして陣屋を北方の岩田村(のち芝村)に移した。このため戒重村ももとの純農村にもどり,街村としての新町も残った。「大和志」では特産として淘羅【いかき】(竹ざる)をあげている。明治15年頃の村況は,税地は田20町8反余・畑5町余・宅地2町余・藪地8畝余,戸数75・人口366,人力車2・荷車18,神社は春日神社,寺院は西方寺,物産は米415石・麦193石余・小麦34石余・粟2石余・甘薯450貫・実綿1,420斤・菜種15石余・煙草200斤(町村誌集)。同22年城島村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7398716 |