喜殿(古代~

平安期から見える地名。高市郡のうち。①喜殿荘。豊瀬荘ともいう。承保3年9月3日付関白左大臣家政所下文案(東大寺文書/平遺1132)に「可早使者共弁決彼此相論,任本公験并処分張理,立券進越後権守業房朝臣訴申所領喜殿庄田畑山野等事」とある。11世紀前半に大和国守を歴任した源頼親が高市郡内に獲得した所領のうち,子息肥前守源頼房に譲与された荘園の総称。のちに頼房女子と越後権守高階業房に処分された。高市郡東郷24条1・2里,25条1・2里,26条1里,27条1里,28条1・2・4里,29条1・2・4里,30条1~4里,31条1~3里に所在し,飛鳥川の井堰7か所,池5か所,山野を含んでいた。堰は「木葉堰・豊浦堰・大堰・今堰・橋堰・飛田堰・佐味堰」,池は「佐志池・桜井池・剣池・軽池・伊立池」。条里は現在の橿原【かしはら】市八木町から明日香村豊浦・川原付近にかけての地域にあたる(東大寺文書承保3年9月10日付高市郡司刀禰等解案/同前1134)。当荘内には東大寺領飛騨荘などもあったが,所領の一部は田永荘とともに頼親の代に四条宮(藤原頼通女寛子)領に寄進され,その後相伝の摂関家(近衛家)領となった(東大寺文書飛騨荘文書目録/同前1703)。平治元年9月2日付大和国目代下知状案(東大寺文書/同前3024)に「殿下(近衛基実)御領 喜殿御庄 田永御庄」,鎌倉期の建長5年近衛家所領目録(近衛家文書/鎌遺7631)には「高陽院(鳥羽皇后,藤原忠実女泰子)領内 大和国喜殿・田永」とある。弘長年間興福寺公人・葛上郡刀禰らが田永荘得光名主則綱の住宅を譴責した際には「大和国喜殿田永御庄官百姓等」が近衛家に訴えている(千鳥家文書弘長元年6月30日付喜殿田永荘百姓申状/同前8674)。②喜殿荘。興福寺十二大会料所。天文19年閏5月日付十市郷諸荘進官米会所目代分納帳(京大一乗院文書)に「喜殿庄 近年成分大略沙汰之 沙汰人助二郎・喜三郎」とある。興福寺会所目代らが納所となり,興福寺十二大会・春日若宮祭の費用を負担した。天正年間の若宮祭礼薪之神事料所注文(天理図書館所蔵文書)には「喜殿庄 八町六反」とある。③東喜殿荘。東大寺灯油料所。久安3年7月日付東大寺御油荘公事注進状(東大寺文書/平遺2624)に「東喜殿庄〈十町之中 一町二段土佐姫君妨 三段有樹得業 七段西金堂衆金住房〉……已上五箇庄,同在大和国高市郡内」とある。11世紀半ばに大和国守源頼親が高市郡内の私領便田66町を割いて設定した東大寺灯油料所5か荘の1つ。段別1升の油のほか,副米・土毛米・菓子・薪・紅花などを負担し,大仏殿万灯会・法華堂千灯会などの用途に充てられた。荘田には,春日社・興福寺西金堂・薬師寺・角寺・川原寺などに雑公事を出す負所田が交じっていたという(東大寺文書嘉応元年11月19日付勧学院政所下文/同前3520)。鎌倉期,建保2年5月日付東大寺領諸荘田数所当等注進状(東大寺続要録寺領章)には「灯油庄田六十六町之内……東喜殿十町」とあるが,すでに紅花・修理役などは勤仕されていない。鎌倉後期から田積は6町に減じた。建治元年の東大寺油引付(東大寺文書/鎌遺12189)によれば,この頃の年貢・公事は「東喜殿〈油六斗,土毛二石四斗 八合,一向万灯会酒肴用途給之,副物一石二斗 本斗,焼米一斗,済合十合〉」。年貢油は,寺僧が御油目代に任じられて収納・分配していたが,この頃は未進がちで,永仁3年には衆徒の衆議によって大仏殿御灯聖に直納することとなった(東大寺文書永仁3年12月2日付年預五師尊顕大仏殿常灯料田充行状/鎌遺18934)。しかし永仁5年には東大寺年預所は,御油未進を理由に荘田6町の作毛に点札を立て,嘉元年間にも当荘沙汰人猷善・則能らの未進を後宇多院に訴えている(同前永仁5年10月7日付年預所下知状/同前,嘉元2年4月日付御灯聖申状・同3年6月19日付後宇多上皇院宣案・同年6月25日付関白九条師教御教書案・同4年11月日付沙汰人則能申状/東大寺文書)。正和年間にも当荘の未進につき,灯油聖が一乗院門跡の使を現地に下すよう求めている(正和4年9月日付大仏灯油聖実円申状/水木文書)。南北朝期には「小山下司源次郎」が当荘の灯油料を15か年にわたって未進・滞納したという(東京大学所蔵東大寺文書1文和2年10月3日付灯油料所未進押領人交名/大日古)。大治3年の東喜殿荘坪付図(東大寺文書/日本荘園絵図集成下)によれば,当荘は高市郡路東26条2里・27条2里の合計16か坪を占める。この坪付は,現在の橿原市上飛騨町のうち,飛鳥川の北,日高山の周辺にあたる。日高山と飛鳥川は坪付図にも描かれている。当荘田は飛鳥川の水で灌漑されていたため,嘉元年間南喜殿荘が上流に新井を設けた際には,荘内が旱魃に見舞われたという(嘉元元年11月日付大仏殿御灯聖申状/東大寺文書)。④東喜殿荘。長講堂談義領。年未詳の東喜殿荘近傍図(東大寺文書/日本荘園絵図集成下)に「東喜殿庄 長講堂御談義領」と註される。この図によれば当荘は中津道の東,「タケチ河(飛鳥川)」の西,香具山の北に位置し,当荘の南方には「南喜殿庄」の注記がある。現在の橿原市城殿町・上飛騨町付近にあたる。⑤東喜殿荘。一乗院門跡領。至徳3年6月9日付一乗院良昭維摩会講師段米催状(岡本文書)に「東喜殿〈十一丁二反卅歩〉」と見え,門跡の段米などを賦課された。⑥西喜殿荘。東大寺灯油料所。久安3年7月日付東大寺御油荘公事注進状(東大寺文書/平遺2624)と「東大寺御油庄六十六町事……西喜殿庄〈五町之中見作三町八段 河成一町二段〉……已上五箇庄,同在大和国高市郡内」とある。大和源氏の祖,大和国守源頼親が私領便田66町を割いて立荘した東大寺灯油料所5か荘の1つ。段別1升の油のほか,副米・土毛米・菓子・薪・紅花などを負担した。東喜殿荘と合わせて喜殿荘と称することもあり,荘田には春日社・興福寺西金堂・薬師寺・角寺・川原寺などの負所田が含まれていた(東大寺文書嘉応元年11月19日付勧学院政所下文/平遺3520)。鎌倉期の建保2年5月日付東大寺領諸荘田数所当等注進状(東大寺続要録寺領章)にも「西喜殿庄五町〈此内河成一町二段〉」とあるが,すでに「近来領主致対捍,紅花・修理役等一切不勤之」と注記がある。建治元年の東大寺油引付(東大寺文書/鎌遺12189)によれば,この頃の年貢・公事は「西喜殿〈油三斗五升,土毛一石四斗 八合,副物七斗 本斗 ミソハムキ,瓜一籠 二十,済合十合,焼米一斗是ハ出納給〉」。鎌倉中・後期には年貢油の未進が恒常化し,有名無実となった(東大寺領顛倒荘々事書案/東大寺文書)。元亨3年12月17日付後醍醐天皇綸旨(東大寺文書/大日古)に「東大寺申大和国西喜殿庄領所並沙汰人等寺用抑留事」とあり,年貢油未進が朝廷に訴えられている。⑦西喜殿荘。一乗院門跡領。至徳3年6月9日付一乗院良昭維摩会講師段米催状(岡本文書)に「西喜殿〈廿一町一反六十歩〉」とある。門跡の段米などを賦課された。⑧西喜殿荘。春日社夕御供料所。永享8年の旬及夕御供催進記録(大東家文書/春日大社文書6)に,毎月14日から16日までの御供料所の1つとして「西喜殿庄〈越智領之内間,近年無沙汰〉」と見える。⑨南喜殿荘。興福寺雑役免(進官免)荘園。延久2年の雑役免帳に「南喜殿庄田畠六十町一段三百歩」とある。公田畠32町3段130歩・不輸租田27町8段60歩からなり,不輸租田の内訳は薬師寺田1町7段180歩・坂田寺田16町180歩・掃守寺田2町6段60歩・左京職田8段300歩・川原寺田8段・葛木寺田2町9段60歩・宗親院田9段・大蔵省田9段180歩・豊浦寺田9段180歩。荘田は高市郡路東27条1・2里,28条1~3里,29条1里の合計80か坪に分布した。この坪付は現在の橿原市城殿町・上飛騨町・栄和町・田中町・石川町・和田町にあたる。平安期の年欠南喜殿荘田堵解(造興福寺記裏文書/平遺補61)に「件新庄田堵之牛,南喜殿田堵牛觝事,不有今度,則三箇度也」と見え,当荘田堵平国延の牛が他荘田堵の牛に突き殺された事件が,興福寺政所に訴えられている。⑩南喜殿荘。大乗院門跡領(菩提山正願院御油料所・興福寺東金堂報恩会料所)。「三箇院家抄」巻2に「南喜殿庄〈本家大乗院 領家一乗院 高市郡〉二十五名也,四十四丁八反〈本六十丁一反二百歩進官帳面 寺門反銭四十六丁六反大〉」とある。雑役免南喜殿荘の後身ともいう。同書によれば,道俊法眼から円順法印・僧正円顕を経て,平安末期~鎌倉初期に大乗院・一乗院両院家の院務を兼帯した信円(藤原忠通息)に相伝された。この時本家大乗院,領家一乗院とされたらしいが,以降大乗院門跡に伝領された。信円は菩提山正願院の本願でもあり,当荘所当の一部を正願院仏事用途に充当することとした。寛喜2年の正願院仏事用途所当注進状(興福寺文書/鎌遺3983)に「一 寄進御油事……三斗三升千灯会料〈但新富并南喜殿年貢被用之〉」とある。南北朝期,観応年間には当時の門主已心寺孝覚が当荘負所米を東金堂報恩講に寄進している(寺社雑事記文明2年12月20日条)。「三箇院家抄」巻2によれば「十三石四斗四升負所米〈本十八石云々〉東金堂報恩会御寄進〈堂方申,二十五石云々〉」とある。なお鎌倉期には,弘安年間に大和国悪党として告発された「南喜殿故浄賢播磨房子息尾張房并姉聟則継衛門入道」が見える(辰市文書弘安8年3月23日付落書起請/鎌遺15488)。嘉元元年当荘が飛鳥川に新井堰を設けたため,下流の東喜殿荘が旱損の害を被ったという(嘉元元年11月日付大仏殿御灯聖申状/東大寺文書)。また室町後期の越智郷段銭帳(春日大社文書4)では「田中方 南喜殿庄〈四十六町六反大,近年路付マテソロ〉」と見える。⑪南喜殿荘。金峰山寺領。建武元年2月日付金峰山吉水院主真遍申状(吉水神社文書)に「大和国豊田・新口・南喜殿等庄以下者,当山諸堂諸社重色之仏神領也」とある。次いで正平8年6月26日付後村上天皇綸旨(同前)によれば,「吉野卅八所并子守社領大和国南喜殿庄」が,南朝の安堵をうけている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7399215 |