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草河荘(中世)


 南北朝期から見える荘園名。城上郡のうち。大乗院門跡領。貞和3年2月日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に城上郡の大乗院方荘園として「草河庄五町九段」とあり,応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(同前)にも同様の記載がある。「三箇院家抄」巻2に「草河庄五町九反〈本四丁四反田地・三丁畠,合七丁四反也〉」とある。大乗院創建当初からの根本17か荘の1つで大乗院供僧僧膳料所。大乗院宿直米3斗を出し,荘田1町(年貢13石5斗)は大乗院三昧供田に充てられた(三箇院家抄1・4,三箇院家指事/内閣文庫所蔵)。また門跡への公事として京上人夫役・奈良巡人夫役・維摩会威儀供・大会出仕之時白布・4月の巡湯頭(風呂役)・紫面畳用途・毎月の院仕御菜米・毎月の供御所御菜用途・年中薪用途・御馬飼料・御馬藁代銭・御牛飼料などを負担した。このうち牛飼料・馬飼料は牛飼童子・馬飼童子の給分,また馬飼料の一部や藁代銭は政所の上北面に恩給された。荘田のうち間田6段(7斗代)は上北面2人の給田,2町3段は下司給以下に充てられている。このほか寺門・門跡から恒例・臨時の段銭・段米・用銭・用米を賦課された。享徳2年の大乗院御領段銭引付(内閣大乗院文書)に「草河庄〈給主楊本四丁四反二貫文上之〉」,永享元年の公方御下向段銭方引付(同前)には「草河五丁九反二貫八百五十文」と見える。下司・給主は大乗院門跡坊人国民楊本氏(三箇院家抄1・寺社雑事記応仁2年10月7日条)。寛正2年には国民十市遠清が当荘検断職に補任されている。当荘の田地は穴師川用水によって灌漑されたが,引水にあたっては川水を三分し,その1つを羽津里井荘に入れたのちに当荘が利用することとなっていた(同前寛正2年12月24日・文明19年6月7日条など)。国民十市氏の勢力が及んで十市氏の私段銭が課せられたこともあったが,文明11年に同氏が没落すると越智氏が進出して当荘に私段銭を賦課している(同前文明9年9月2日・12年9月27日条)。戦国期にも大乗院門跡領として存続,天正8年織田信長に提出された大乗院家御知行分帳(広大大乗院文書)には十市郷のうちとして「草川庄」,田数2町6段と御風呂銭・御薪銭以下の公事の記載がある。当地を本拠とする地侍に草川辻氏がいる。同氏は春日若宮祭に流鏑馬頭役を勤仕する願主人の一員で長川党に属す。応仁・文明の乱では長川党刀禰箸尾氏は十市方についたため,文明9年に越智氏らによって没落した。翌10年の若宮祭では越智氏から在所に留まった草川辻氏に流鏑馬勤仕が命じられたが草川辻は承引せず,住屋を焼かれている(多聞院日記文明10年9月15日・10月13日条など)。また同氏は草川荘所当米から辻殿米1石を給与されている(三箇院家抄2)。なお「西大寺田園目録」には鎌倉期の弘安6年6月藤原姉子から西大寺光明真言講田に寄進された私領として「城上郡北郷十七条二里卅坪内一段〈字クサカハ〉」がある。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7399269