倶尸羅郷(中世)

南北朝期から見える郷名。葛上【かつじょう】郡のうち。倶志羅とも書く。影現寺(新庄町柿本)所蔵大般若経奥書に「応永卅四年丁未正月廿九日 倶尸羅 願主清原俊経」とある。また常楽寺(三重県青山町)所蔵の大般若経奥書に「大和国葛上郡倶尸羅郷安楽寺御経也」「大和国葛上郡倶尸羅郷内之諸人売儲畢」などと見え,同じく経唐櫃には「倶尸羅郷 貞和三」の銘がある(御所市史)。当地は国民倶尸羅氏の本拠地。同氏は清原姓,大乗院門跡坊人。春日若宮祭の流鏑馬頭役を勤仕する願主人の一員で,至徳元年の長川流鏑馬日記に「拘尸羅殿」と記す。応永21年には他の有力衆徒・国民らとともに足利義持から上洛を命じられた(寺門事条々聞書/内閣大乗院文書)。文安年間には倶尸羅俊種・俊経が,当地の安位寺に隠居していた前大乗院門跡経覚に親昵している(経覚私要鈔文安4年正月朔日・6年正月12日条など)。またこの間しばしば,興福寺・大乗院門跡の召によって検断などに動員され,あるいは門跡に上番して兵士役を勤めた(寺社雑事記康正3年6月20日・文明7年3月23日条など,御兵士引付/内閣大乗院文書)。門跡坊人として,興田荘給主・下司,土橋荘白布公事銭あるいは安位寺の残水を用水とする権利を与えられた(三箇院家抄1)。応仁・文明の乱以降大和の国人は畠山義就与党の越智・古市方と畠山政長与党の筒井・十市方の両陣営に分かれて対立・抗争したが,倶尸羅氏は当初筒井方であったが,のちに越智方に転じた(同前文明3年閏8月4日・14年12月30日条)。近隣の筒井方国民楢原氏とは競合関係にあったが,文明7年越智・古市両氏が軍勢を「倶志羅之城」に入れ,楢原氏を攻めたため,同氏は没落,倶尸羅氏の勢力は伸張した。文明11年には福住に退却した筒井氏を古市氏の麾下にあって追撃,翌年には近隣の越智方吐田氏と衝突している(同前文明7年4月2日・11年10月4日・12年11月14日条)。明応6年10月,筒井順盛が越智・古市軍を破り,当地も兵火に焼かれた(明応六年記/続群2下)。明応8年越智・筒井両氏は講和。永正2年大和に侵入した赤沢朝経と古市澄胤を退けた大和国衆12氏は盟約して一国支配に当たったが,この国判衆に倶尸羅氏も含まれている(多聞院日記永正3年4月15日条)。その後赤沢朝経・長経らの大和入部によって,一時没落。その所領は国民箸尾氏一族伴堂氏が知行したが,大永元年在所に復帰した(祐維記大永元年5月条/続南行雑録)。「大和記」には大和国侍16人衆のうちとして見える。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7399282 |