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巨勢(古代)


 飛鳥期から見える地名。①巨勢。朱鳥元年「巨勢寺に二百戸を封す」と見える(天武紀朱鳥元年8月辛卯条)。巨勢寺は現在の御所【ごせ】市古瀬字大日に比定される。多数の礎石や古瓦が出土し塔心礎が残り,出土瓦から同寺は飛鳥末期の創立と考えられている(御所市史)。平安期においても寺田が存続していた(延久2年雑役免帳)。一方「万葉集」巻1には大宝元年9月持統太上天皇の紀伊行幸の時,坂門人足や春日蔵首老が「巨勢の春野」(54・56)を詠んでいる。巨勢野は南北に細長い峡谷の平地を示すか。「延喜式」神名上には高市郡54座のうちに「許世都比古命神社」が見える。現在の明日香村越字宮坂の許世都比古命神社に比定されているが,同社は巨勢地方の産土神で,巨勢氏の祖神と考えられるので,その本拠地である旧巨勢郷内に求めるべきであろう(御所市史)。巨勢氏の名は史料上では地名より早くから見える。すなわち継体朝に「許勢男人大臣」が見え(継体紀元年正月甲子条),男人の娘,紗手媛・香香有媛の姉妹はともに安閑天皇の後宮に入れられたという(安閑紀元年3月戊子条)。欽明朝には「既酒臣」が見える(欽明紀5年3月条所引百済本記)。建内宿禰の子「許勢小柄宿禰」は巨勢臣・雀部臣・軽部臣の祖と伝承され(古事記孝元段),「巨勢臣」は天武天皇13年に朝臣の姓を賜っている(天武紀13年11月戊申条)。「姓氏録」右京皇別上には,「巨勢朝臣」「巨勢楲田朝臣」「巨勢斐太臣」が見える。②巨勢郷。「和名抄」高市郡七郷の1つ。高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「和名抄」以外に郷名は見えない。コセの地名を冠した式内社が高市・葛上【かつじょう】両郡に分布し,巨勢山が両郡の郡界をなしていたことから(五郡神社記),当郷は現在の御所市古瀬・樋野付近に比定できる。ただし「大和志」は現在の明日香村越に比定する。③巨勢東条。延久2年の雑役免帳に石摩荘の公田畠14町100歩のうちに「巨勢東条二里一坪小 二坪一反半 三坪二反 近泉三反 同西ヘ二反 同小谷二反 十二坪四反 谷湯前三反 寺谷百八十歩」と見える。当条は巨勢寺遺構(現御所市古瀬)から南へ延びた条里区と考えられている(条里復原図解説)。④巨勢西条。延久2年の雑役免帳に今木荘の春日御社御幣田20町のうちに「巨勢西条四里一坪三坪合四反 二坪二反 栗坂十坪三反」と見える。西条4里10坪に「栗坂」と見え,現在の御所市に大字栗阪があることから,国見山塊を東西に横断する谷状地形がこれに該当すると考えられる(同前)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7399551