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御所町(近世)


 江戸期~明治22年の町名。葛上郡のうち。はじめ御所村と称した。慶長5年御所藩領,寛永6年幕府領,同16年郡山藩領,延宝7年からは幕府領。村高は,「慶長郷帳」では「御所三室共ニ」と見え1,419石余,「寛文郷帳」では御所村と見え1,242石余,「元禄郷帳」2,486石,「天保郷帳」1,492石余。慶長年間~寛文年間までに三室村と松本村を分村。慶長5年から寛永6年に御所藩の陣屋が置かれ,円照寺と正栄寺付近,および葛城川の西に町場が形成された。寛保3年の高1,492石余・反別96町5反余。寛文11年以降御所町と呼ばれることが多くなった。宝暦5年の家数873・人数3,240(男1,648・女1,592)。元文5年閏7月17日葛城川の洪水により西御所の被害(御所流)が起きた。記録によれば,「未の刻より酉の上刻迄大雨車軸篠をみたすがごとく,しかれども此大雨大国をしなべて降りしにもあらず。葛城川の河上金剛山より麓の里にては,森脇村より佐味村迄の間の大雨」とある。葛城川・柳田川の堤防の決壊により,「水勢さかたつ山の如くまくれ来り,西御所村は半分余流れ,財宝を捨てて逃る者魚の鵜に追るる如し」という有様であった(観音堂文書)。被害は流死人56というが,一説に流家601・潰家58・流蔵300・残家41・残蔵18,流死人218・流牛馬14という(赤塚家文書)。平坦部と吉野山間部との中継地としての役割を果たし,木綿や菜種の栽培を背景に木綿織業や絞油業が発達した。元禄14年に起きた水越峠をめぐる大和側と河内側との水論には,大和側の吐田【はんだ】郷8か村の訴訟を応援し,大和側を勝訴に導いた。宝暦年間頃から大和絣が盛んに生産されるようになる。嘉永6年「西国三十三所名所図会」には,「五所・新庄・高田の辺りは,惣て木綿の紺かすりをはじめ種々の異なる縞の類ひ,或は絹の糸を交へてめづらしき縞を織出すを家毎の手業とせり,是を世に大和絣と号して名産とすされば,村中に藍染の紺掻多く数の綛糸を染て軒端に干す,表の傍には機織女小歌を諷ひ,裏には糸繰老婆詠歌をあぐる爪の長き仕入の商人あれば,気の短き織屋の親仁ありて,恰もいさかひの如く算盤の音機音に混じて,甚静かならざるは正しく土地の栄といふべし」と見える。浅田松堂による大和絣の発明は宝暦5年頃で,「御所流」後の惨害から立ち直るよりどころとなった。明治期以後は海外にも輸出された。絞り油の生産販売も発達し,天保の改革によって一時株仲間が解散させられたが,万延元年に再興された。当町には株仲間商人は7人いた。御所柿も名産となり,元禄年間の「本朝食鑑」にも「柿に数種あり,樹葉,花大抵相同じ,唯御所柿其味絶美なり,以て上品とす……土人の勝美なる者を取りて禁裡に貢献す」とある。明治10年御所警察署,同19年御所郵便局発足。「町村誌集」によれば,明治15年頃の幅員は東西14町余・南北13町,税地は田80町余・畑5町余・宅地13町余の合計99町余,戸数983・人口3,944(男1,934・女2,010),牛3・馬2,人力車77・荷車23・小車57,寺社は円照寺・浄宗寺・観音寺・正栄寺・正福寺・真竜寺・鴨都波神社・春日社・戎社,学校は公立小学校,古跡は池心宮跡,官公庁は町会所・郡役所・郵便局,物産は大和綿・方柿,民業は商業570・農業200・工業200。同22年市制町村制施行による御所町となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7399558