芝村藩(近世)

江戸期の藩名式上郡芝村に陣屋を置いた外様極小藩延享3年戒重藩が芝村に陣屋(藩庁)を移転して成立移転の背景には,元文2年大和・摂津両国で1万3,000石余の幕府領を預り支配したのをはじめとし,延享3年8万9,076石余,8代長教の代には最高9万3,430石余の幕府領を預り,年貢増徴を行った功績を認められたことがあった寛保元年には預所支配に精励,増徴に成功したため幕府から賞された反面,預所農民の不満は高まり,元文年間から宝暦・明和年間にかけて一揆も頻発した延享3年式上郡辻村など9か村が年貢減免を幕府巡検使に嘆願,寛延元年各郡の預所農民は京都町奉行所へ年貢軽減を箱訴ついに宝暦3年には十市郡9か村を中心に,稲刈りを拒否,年貢減免・預所替えを要求して京都町奉行所に箱訴に及んだ世に芝村騒動とも十市騒動ともいう幕府の仕置で死罪1・遠島4・追放32などの犠牲者がでたのち当藩の課税も減少し,預地高も減少していったそして,寛政6年預所方役人の不正が発覚し,藩主長教は差控,家老・用人・郡奉行ら6人が押込となり,関係者も処分され,預地全部を召し上げられた長教の代の明和5年には藩領農民2,000~3,000人が年貢軽減を求めて藩庁に押し寄せたり,大庄屋宅を打ち壊した藩主は輔宜・長教・長宇・長恭・長易と続いた藩領は,式上郡12か村・4,197石余,山辺郡9か村・3,655石余,摂津国島下郡5か村・2,148石余の計1万石であった長易の代の文久3年には天誅組追討の功があり,明治維新直後,大和の代官支配地の取締りを高取藩とともに命じられた明治3年には家数1,385・人数6,744を擁した同4年廃藩置県により芝村県となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7399921 |