100辞書・辞典一括検索

JLogos

30

島(古代)


 飛鳥期から見える地名。推古朝の大臣蘇我馬子は飛鳥河の傍に住み,庭中に小島を築いた小池が存在したので,時の人は馬子を「島大臣」と称したとある(推古紀34年5月丁未条)。これが地名の由来となり,のちには「橘の島(宮)」(万葉集179・1315),「島の藪原」(皇極紀3年6月是月条),「島の榛原」(万葉集1260・1965)と称されている。これより先,雄略朝に「上桃原」「下桃原」の地名が見え(雄略紀7年是歳条),推古朝には蘇我馬子が「桃原墓」に葬られたとある(推古紀34年5月丁未条)。桃原墓が石舞台古墳であるとすれば,この一帯が古くは桃原と称されたことになる。馬子の邸宅は蘇我本宗家の滅亡後にも王族の住居として使用されていたらしく,皇極天皇の母吉備姫王が「吉備島皇祖母命」(皇極紀2年9月丁亥条),舒明天皇の母糠手姫が「島皇祖母命」(天智紀3年6月条)と称され,中大兄皇子は宮殿を島大臣の家に接立したとある(皇極紀4年6月己酉条)。壬申の乱の前後には大海人皇子(天武天皇)が「島宮」に立ち寄っている(天武即位前紀天智天皇10年10月壬午条,天武紀元年9月庚子・癸卯条)。即位後も島宮はしばしば利用され,大射ののち御して宴を催したり(天武紀5年正月乙卯条),周防国から献上された赤亀を「島宮の池」に放っている(天武紀10年9月辛丑条)。島宮にも池は存在し,馬子の邸宅にあった池との関連が考えられる。その後島宮は天武天皇から子の草壁皇子へと伝領されたらしく,「万葉集」には柿本人麻呂や舎人たちが皇子の死を傷み悲しんだ挽歌に,主人がいなくなってさびれていく島宮の情景が詠み込まれている(167~193)。それらの歌によれば,島宮には「勾の池」(170),「上の池」(172)と呼ばれる池があり,「島の荒磯」(181),「水伝ふ磯の浦廻の石上つつじ」(185)と詠まれるように庭石を並べて池を「磯」に見立て,「島をも家と住む鳥」(180),「放ち鳥」(170)がいた。さらに「島の御門」(173・189),「一日には千たび参りし東の大き御門」(186)が存在した。島宮は草壁皇子の死後も存続し,翌年には「京と畿内との人の,年八十以上なる者に,島宮の稲,人ごとに二十束賜ふ」とある(持統紀4年3月丙申条)。島宮の稲とは,元来「吉備島皇祖母の処処の貸稲」(孝徳紀大化2年3月辛巳条)と称されていたと思われる。平城遷都後,天平5年の興福寺西金堂の造営にあたっては,島宮から藁630囲が車で運び出されている(興福寺西金堂造仏所作物帳/大日古編年1)。また天平勝宝2年頃まで島宮には少なくとも80人程の奴婢が存在した(天平勝宝2年2月24日官奴司解/寧遺下)。橘寺関係の古記録には島宮に御田が11町付属していたと見える(上宮太子拾遺記4・護国寺本諸寺縁起集橘寺)。その御田は天平勝宝8年に光明子により橘寺へ寄進されたという。つまり島宮は王族の田荘,あるいは別業としての性格を有していたといえる。従ってその宮域も相当広く,現在の橘寺と治田神社(旧岡寺)もそのうちに含まれていたらしい(醍醐寺本諸寺縁起集竜門寺・東大寺要録1本願章1・上宮太子拾遺記4)。さらに「万葉集」に「神名火の 清き御田屋の 垣内田の 池の堤」(3223),「朝宮」(3230),「離宮所」(3231)と詠まれているのは島宮の情景を歌ったと考えられる。なお蘇我馬子の墓に擬定される石舞台古墳の近くから,一辺約40m,底一面に玉石を敷き,周囲に石組みの堤を築いた方形の池が検出された。また橘寺から東南へ200mのところに位置する東橘遺跡からは7世紀中~後期にかけての宮殿跡が発見され,島宮の庭園施設の一部と推定されている。また付近には島宮に関連する地名として池田・多芸・水落・鳴海・甲殿・下殿などがある(条里復原図No94)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7399940