100辞書・辞典一括検索

JLogos

27

新庄村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。葛下【かつげ】郡のうち。慶長6年新庄(布施)藩領,天和2年からは幕府領。村高は,「慶長郷帳」では51石余,「寛文郷帳」では新城村と見え同高,「元禄郷帳」72石余,「天保郷帳」81石余。慶長6年和歌山城主桑山重晴の嫡孫桑山一晴が大和布施郷に入部し,当村に陣屋を置き,町割を実施した。陣屋は新庄屋敷山古墳(字屋敷畑・ハコの谷)に東面して構えられた。慶長8年陣屋は玄関・御殿・御別殿のほか大奥・台所・御蔵・外御蔵・塩味噌蔵・御物見櫓からなり,大手にあたる東を除き三方に土塁を巡らした(稿本新庄町誌)。藩士屋敷は陣屋の西・北・東にあり,東は家老など藩の要人,北側は中層藩士,町屋に連なる南側や東側は軽輩藩士の居住地であった。城下町ともいえる町屋は道穂【みつば】村・桑海村の地内に形成された。町割は北から東西に走る裏町通り(現住吉通り)・本町通り・桑の町通りの3筋,裏町通りと本町通りは約35間,本町通りと桑の町通りは約30間,裏町通りの北側,桑の町通りの南側の屋並奥行はそれぞれ15間で,外側は竹藪に囲繞された。天和2年桑山一尹の改易で殷賑さは失われた。明和6年村様子大概書では家数256・人数1,140(天理図書館所蔵文書)。天保14年余業稼書上帳写では男は縄俵稼,女は糸稼のほか諸荷物賃物稼に従事(角尾家文書)。このうち木綿は安政4年紺済3,050疋・縞1,600疋を生産した(今般産物類御取調ニ付書上帳/角尾家文書)。明治2年諸職稼并ニ商売人書上帳では油稼7・糟屋2・質屋株14・三商売(古手・古鉄・古道具)56・絹布太物類4・木綿織屋職40・薬種株1・合薬株7・白米并雑穀6・荒物屋4・鋳職1・雑穀仲買6・藍染屋職4・表具師1・色染屋3・木綿屋2・糸屋16・旅籠屋并煮売10・魚屋8・田葉粉屋4・菓物屋14・青物屋6・じんきと申織屋8・炭屋4・畳屋職3・瓦屋職1・屋根屋職1・大工職6・木作職8・綿打職4・桶屋1・鍛冶屋1・左官屋3・豆腐蒟蒻屋4・風呂屋2・小間物4・髪付蝋燭屋1・油受売3・醤油屋3・琴三味線稽古屋1・瀬戸物屋1・あんま取2・瓦屋根葺并小手間4・鋳重物類1・髪結職5・樫木屋1・三味線張職1・提灯張屋1・綿売買1・瀬戸物焼次1・煎餅焼1からなる商工業中心の在郷町であった。明治7年篤行舎が設置され,同9年新庄小学校となるが,同21年柿本村の人麿尋常小学校に合併した。同15年頃の幅員は東西7町・南北2町余,税地14町9反余,戸数305・人口1,272,寺院は現得寺・西光寺,物産は米・麦・綿・菜種(町村誌集)。同22年新庄村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7400187