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添上郡


飛鳥期から見える郡名。「続紀」和銅元年9月乙酉条に「春日の離宮に至る。大倭国添上・下二郡今年の調を出すことなかれ」と見える。これより早く,欽明朝に「倭国の添上郡の山村」(欽明紀元年2月条)とあるのは,添県を「書紀」編者が潤色したものか。和銅7年,添上郡人奈良許知麻呂はその孝義を表彰され,終身事を免ぜられた。これは麻呂が性孝順で,かつて後母のために讒せられ,父の家に入れられなかったが,怨む色なく,ますます孝養を篤くしたからという(続紀和銅7年11月戊子条)。養老5年,元明太上天皇は右大臣長屋王と参議藤原房前を召し入れ,大和国添上郡蔵宝(佐保)山の北,雍良岑に火葬し,他所への改葬禁止を遺言した(続紀養老5年10月丁亥条)。同年12月,太上天皇は崩御すると,遺詔に従って大和国添上郡椎山陵に葬られた(続紀養老5年12月乙酉条)。ちなみに,「延喜式」諸陵寮には「奈保山東陵〈平地御宇元明天皇。在大和国添上郡。兆域東西三町。南北五町。守戸五烟〉」とある。天平勝宝7年,奈保山東西などの山陵に遣使して聖武太上天皇の病気回復を祈請させている(続紀天平勝宝7年10月丙午条)。現在の奈良市奈良坂町養老ケ峰に比定される。天平2年の大倭国正税帳(正倉院文書/寧遺上)添上郡条によると,稲穀8,320石8斗3升9合,頴稲6,051束5把,酒13甕,正倉16間(穀倉3間・頴倉5間・雑色稲納倉8間)とあり,丸・菟足の2所神戸の収支が記されている。大税穀の大部分は5年以上前から蓄積された古穀で占められている。天平13年,奴足人ら5名は大養徳国添上郡志茂郷少初位下大宅朝臣賀是麻呂の戸に付されている(東南院文書天平13年閏3月7日右京職移/寧遺下)。なお,賀是麻呂は「添上郡大宅郷」「添上郡師毛里」の戸主ともあり,東大寺大仏が完成した天平勝宝元年に61人の奴婢を同寺へ貢進している(東南院文書東大寺奴婢帳/寧遺下)。天平14年11月15日智識優婆塞等貢進文(正倉院文書/寧遺中)には「柿本臣大足〈年廿二 大養徳国添上郡大岡郷戸頭柿本臣佐賀志之男〉」「大養徳国添上郡仲戸郷於美里戸主奈良許知伊加都戸口淡海少広」の氏名が見える。天平19年の法隆寺資財帳(寧遺中)に,水田として添上郡2町1段216歩とあり,同年の大安寺資財帳(寧遺中)にも処々荘の1つに「添上郡瓦屋所」とある。また,天平年間と考えられる平城宮跡出土木簡に「正六位上右舎人阿倍勝大養徳国□□(添上カ)郡山村⊏」という墨書が見える(平城宮木簡1解説No78)。天平宝字4年,仁正皇太后(藤原不比等の娘,光明子)を大和国添上郡佐保山に葬った(続紀天平宝字4年6月癸卯条)。同年12月,皇太后宮(宮子)と皇太后(光明子)の墓は以後,山陵と称し,忌日は国忌の例に入れ,式の如くに斎を設けることになった(続紀天平宝字4年12月戊辰条)。ちなみに,「延喜式」諸陵寮には「佐保山東陵」として「平城朝皇太后藤原氏。在大和国添上郡。兆域東三町。西四段。南北七町。守戸五烟」とある。文武天皇の夫人藤原宮子の「佐保山西陵」(延喜式諸陵寮・続紀天平勝宝6年7月壬子条)とともに現在の奈良市法蓮町に比定される。当郡にはこのほか,開化天皇の春日率川坂上陵,元明天皇の奈保山東陵,元正天皇の奈保山西陵,聖武天皇の佐保山南陵,施基皇子の田原西陵,光仁天皇の田原東陵,早良親王の八島陵,平城天皇の楊梅陵,磐之媛命の平城坂上陵が存在したとされる(延喜式諸陵寮)。これらのうち,光仁天皇の「後田原山陵」は天安2年に年終荷前之幣を献ずる10陵4墓に指定され(三代実録天安2年12月9日条),平城太上天皇の「楊梅山陵」は元慶8年に同様の10陵5墓に指定されている(三代実録元慶8年12月20日条)。天平神護元年,当郡人置日佐大津らは大般若経を写した功により造東大寺司より式部省に対して叙位の例にあずかるべしとの文書が発給されている(正倉院文書天平神護元年正月13日造東大寺司移/大日古編年5)。神護景雲3年,当郡人正八位下横度春山に桜島連の姓を賜ったとある(続紀神護景雲3年4月乙巳条)。宝亀3年,出雲国員外掾正七位上大宅朝臣船人は病により大和国添上郡春日郷に所有する家地5段と檜皮葺板敷屋・草葺東屋・檜皮葺倉・草葺倉各1間を東大寺へ進上している(薬師院文書宝亀3年8月11日出雲員外掾大宅朝臣船人牒/大日古編年6)。同4年,山辺千足は添上郡山公郷に所有する地1段・板1間からなる家1区を質として300文の月借銭を利息45文で借りている(正倉院文書宝亀4年4月7日山辺千足月借銭解/大日古編年6)。年欠の丹裹古文書貢進仕丁歴名帳(正倉院文書/大日古編年25)に「仕己知豊国年卌七〈大倭国添上郡山村郷戸主仕己知虫麻呂戸口〉」「八島白麻呂年十六〈大倭国添上郡資母郷戸主八島麻呂戸口〉」「山君岐波豆年廿二〈大倭国添上郡山君郷戸主大初位下山君乎奈弥戸口〉」「淡海人足年十九〈大倭国添上郡楢中郷戸主大初位上己知伊香豆戸口〉」の氏名が見える。延暦7年,右京6条3坊戸主尋来津首月足は当郡春日郷に所有する家1区地4段100歩を銭10貫で左京5条1坊戸主小治田朝臣豊人戸口福麻呂に売却している。当郡の擬少陵として八島家長,擬主政として巫部連広之の署名が見える(薬師院文書延暦7年12月23日大和国添上郡司解/平遺5)。同9年,太政大臣職田40町のうち10町を当郡に改め置いた(延暦9年8月8日符/三代格15)。当郡の条里は,平城京左京の東と南に所在する基本条里たる京東条里と京南条里に分かれ,特殊条里として京南辺条里および東山中の楊生郷の条里区がある。京東条里は平城京北京極大路の東延長線を基準として,条は北から南へ8条が展開し,里は平城京東京極を基準として西から東へ最大5里が及ぶ。ただし,平城京北京極大路の東延長線は確認されていない。とくに1条2里は佐保里,3条2里は腹見里,5条4里は春日里,5条5里は上春日里と称された。京南条里は,平城京の南部から大和盆地の南端にまで及ぶ基本条里であるが,添上・添下郡についてのみ「京南」の名称が付される。条里は北から南は1条から7条が展開し,里は下ツ道を基準として東方へ最大9里が及ぶ。条里不詳の里名に,於美里・師毛里がある(条里復原図解説)。大和国では添上・高市両郡に軍団が存在し,葛城の人は高市団に,山辺の人は添上団に配されることになっていた(令義解軍防令兵士簡点条)。また,欽明朝に来帰した39人の訳(訳語・通事)となった珍勲臣は大和国添上郡の日佐氏ら4氏の祖と伝承される(姓氏録山城国皇別日佐)。平安期に入り,弘仁元年,藤原薬子の変に際し,平城上皇は平城京から川口道をとって東国へ向かおうとしたが,「添上郡越田村」で甲兵がさえぎったので,進めず引き返した(後紀弘仁元年9月己酉条)。翌2年,当郡の地2町を左近衛府に賜った(後紀弘仁2年10月乙亥条)。同4年,勅して「大和国添上郡隅山村」に所在する藤原房前の墓地東西8町・南北2町に対し,百姓の侵伐を禁止した(紀略弘仁4年12月癸巳条)。同7年,左京5条1坊戸主浅井王の戸口小豊王は当郡春日郷に所有する地3段・墾田4段100歩からなる家1区を左京6条1坊戸主石川朝臣円足の京家と相替している(薬師院文書弘仁7年11月21日雄豊王家地相博券文/平遺42)。その後,同家地は貞観14年に銭28貫で実行王(命順大法師)に売却されている(薬師院文書貞観14年12月13日石川滝雄家地売券・延喜11年4月11日東大寺上座慶賛愁状/平遺166・206)。承和8年,勅により大和国添上郡春日大神々山の内は,狩猟・伐木などを禁止すると郡司らに命じられた(続後紀承和8年3月壬申条)。嘉祥2年,当郡人紀朝臣核継らの本居を改めて左京6条1坊に移貫し(続後紀嘉祥3年4月辛亥条),仁和元年には当郡八島郷人相模宿禰阿古麻呂ら3戸の男女31人を河内国渋川郡に移貫している(三代実録仁和元年9月21日条)。さらに,貞観5年,大和国に下知して当郡般若寺近側の山10町の内では百姓の伐損を禁じ(三代実録貞観5年9月26日条),同6年には田畝に変わった都城内の内蔵寮田160町,そのほか私墾の地を収公して租を輸さしめている(三代実録貞観6年11月7日条)。延喜5年,辛人稲守は稲860束で当郡3条1里28坪に所有する1段200歩からなる家地を権上座法橋上人位経覚に売却している(市島謙吉氏所蔵文書延喜5年10月6日辛人稲守家地売券/平遺195)。「延喜式」神名上には「添上郡卅七座〈大九座小廿八座〉」と見え,「ソフノカミ」の傍訓が付されている。同書民部上には大和国15郡の1つとして「添上」郡があり,同様の傍訓が見える。「和名抄」には「添上郡」として山村・楢中・山辺・楊生・八島・大岡・春日・大宅の8郷を載せる。長保2年8月29日付東大寺白米納所返抄(早稲田大学所蔵文書/平遺4582)に「添上郡南郷」,長保3年閏12月19日付東大寺返抄(水木直箭氏所蔵文書/平遺4593)に「添上郡楊生郷」,長保3年8月27日付造東大寺返抄(根津美術館所蔵文書/平遺415)に「添上郡西郷」,さらに長保2年12月2日付東大寺返抄(渡辺福太郎氏所蔵文書/平遺395)には「添上郡中郷」が所見するなど,平安後期には当郡は大和のほかの諸郡同様に大和国衙の国内支配体制改編の一環として南郷・楊生郷・西郷・中郷などのいくつかの行政単位に分割再編された。これらの郷の境界は不詳であるが,楊生郷は郡域東方の山間地域を指す。治安元年に後一条天皇が春日行幸した際,当郡は春日社に寄進されたという(紀略治安元年10月14日条)。この郡全体の神領化の実否は明らかではないものの,治安3年12月1日付太政官符案(根津美術館所蔵文書/平遺494)には「応以大和国添上郡中郷并楊生郷等奉寄春日社事」とあって,中郷・楊生郷は春日社料所とされている。特に楊生郷は神領山郷ともいわれ,このような経緯と地勢の関係によって郡域東方の山間部は中世にも東山内に属して,むしろ山辺郡方面との交流の深い独立地域の観があった。興福寺が大和国衙に代わって大和一国支配権を確立する過程で,これらの郷の行政単位としての意義は消滅し,郡域の大半は興福寺・春日社の荘園化し,これに対応して興福寺・春日社あるいは東大寺・元興寺など大寺社の膝下である平城京外京が門前郷として都市化,やがて奈良町の成立をみた。郡域の平野部には古市・大安寺・山村・窪城・今市・箕田・番条・森本・高樋・椿尾らの衆徒諸氏,東山内には狭川・柳生・簀川・平清水・丹生・水間らの国民諸氏が簇生し,興福寺ではこれら衆徒・国民を組織するとともに奈良を除く一郡単位に郡使を派遣して寺門段米・段銭の賦課などを行った(東大寺文書弘安6年4月21日付興福寺公文所下文案/鎌遺14840など)。しかし,室町期頃には添下郡の衆徒筒井氏がその勢力範囲である筒井郷を形成し,当郡の南西部一帯はこれに編入されたことから,郡の行政単位としての実質は戦国末期までほとんど失われた。郡域内では奈良南方の古市氏が筒井氏と並ぶ有力国衆に成長していたが,むしろ奈良町内に勢力を伸張する傾向であったといえよう。応仁・文明の乱では没落した筒井派が東山内に逃れてここを根拠地としたため,東山内にも国中の政治状況が持ち込まれた。郡域の平野部では文明末年には古市氏が優勢で,次いで明応年間~永正年間には古市氏と結んだ細川政元の部将赤沢朝経が支配権を振るっている。天文年間に筒井氏は平野部と東山内の境の位置に椿尾城を築いて郡域制圧を目指し,永禄年間には同城に拠る筒井順慶が奈良北方の多聞山城に進出した松永久秀と郡域各所と奈良を舞台に合戦を繰り広げた。文禄検地では奈良町を除く当郡の村数108・石高5万9,000石余。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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