田中(古代~中世)

平安期から見える地名添上郡のうち①北田中荘田中荘ともいう東大寺雑役免(香菜免)荘園平安後期の東大寺雑役免帳(東大寺要録6封戸水田章8)に「田中庄十町三段百八十歩 今吉」とある荘田は公田畠5町5段・勧学院田4町8段180歩からなる康和5年の今吉負田検田帳(東大寺文書/平遺1530)によれば「添上郡北田中今吉負田」として定田畠4町7段180歩(造畠4町2段180歩・水田5段)と諸不輸田・損田5町2段を掲げる諸不輸田の内訳は一品田3町・天量院田1町・伝法院田3段今吉負田は添上郡京南3条2・3里,4条3里にわたる合計17か坪にほぼ一円的に分布したこの坪付はほぼ現在の大和郡山市番匠田中町付近にあたる当荘は本来大和国司が公田(今吉名)の所当公事・臨時雑役を免除して,東大寺大仏の御菜を献進させたことに由来し,御菜のほか造大仏殿人夫役・比曽縄役などを東大寺に勤仕する定めであった永久年間ごろには興福寺の押妨を被るようになり,東大寺から朝廷に訴えられている(東南院文書・京都大学所蔵東大寺文書・保坂潤治氏所蔵文書/平遺1852・1854・1856・1857)久安4年9月25日付雑役免顛倒荘注進状(東大寺文書/平遺2654)には「北田中荘内四町〈十町内〉募勧禅院威,不勤寺役之」と記すまた平安後期には一国平均役を国衙から賦課されることがあり,大治2年には防河人夫役,平治元年には野宮柴垣役などを勤仕した(京都大学所蔵東大寺文書・東大寺文書/平遺2113・3022)なお嘉禄2年12月27日付勧学院政所下文案(東大寺文書/鎌遺3558)では一品位田の所在坪として「(三条二里)廿七坪・廿八坪・卅三坪〈田中荘〉」と記すこの坪付は北田中今吉負田の一品位田とほぼ一致するまた保延元年5月15日付平資宗田地売券(春日神社文書/平遺2322)をはじめとして鎌倉期に至る連券には,田地の在所として「合壱段四十歩者〈字田中荘之内〉在大和国添上郡京南三条三里四坪」などとあり,この坪付は北田中今吉負田と一致して,現在の大和郡山市番匠田中町のうちにあたる南北朝期には源忠法眼に押留されて転倒している(文和2年東大寺領大和国散在田地并抑留交名注文/東大寺文書)②南田中荘東大寺雑役免(香菜免)荘園平安後期の東大寺雑役免帳(東大寺要録6封戸水田章8)に,田中荘と並んで「同田中庄十町五段三百歩」とある公田畠7町4段300歩と不輸租田3町1段からなり,不輸租田の内訳は一品位田1町8段・勧学院田8段・伝法供田5段大治2年の雑役免防河人夫支配状案(京都大学所蔵東大寺文書/平遺2113)に「南田中々五人」,平治元年の雑役免野宮柴垣支配状(東大寺文書/平遺3022)には「南田中庄二尺二寸」とあり,平安後期にはしばしば国衙から一国平均役を賦課された南北朝期には櫟庄次郎入道という者の抑留を被って転倒している(文和2年東大寺領大和国散在田地并抑留交名注文/東大寺文書)なお当地は衆徒番条氏の一族番条田中氏の本拠地であった(経覚私要鈔長禄4年3月朔日条,寺社雑事記明応5年2月20日条など)番匠田中村文禄検地帳(天理図書館所蔵文書/大和郡山市史史料集)によれば田畠10町7反7畝23歩,分米156石8斗6升興福寺寺門領であった(京大一乗院文書)

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7400641 |