十市(古代~

平安期から見える地名。十市郡のうち。①十市荘。東大寺領。天暦4年11月20日付東大寺封戸荘園并寺用帳(東南院文書/平遺257)に「十市郡十市庄田地二町五段十歩」とある。水田1町145歩・畠1町4段225歩からなっていた(東大寺要録6封戸水田章8)。当荘の淵源は,東大寺が天平宝字5年11月に息長丹生真人広長と車持朝臣仲智から布施屋の地として購入した十市郡池上郷内の地2区計7段に遡るらしい(東南院文書天平宝字5年11月27日付十市郡司売買地券文解・宝亀2年2月23日付十市郡布施屋守曽禰刀良解/大日古)。大治3年7月日付東大寺荘園目録(東大寺文書/平遺2119)には「十市二丁」,また鎌倉期の建保2年5月日付東大寺領諸荘田数所当等注進状(東大寺続要録寺領章)にも「十市庄〈雑役庄内〉河成并下司給等九段,定畠1町1段 地子麦一石一斗〈段別一斗定〉」と見える。②十市荘。東大寺雑役免(香菜免)荘園。年未詳の東大寺雑役免坪付案(東大寺文書/平遺3271)に「十市庄八町九反六十歩 紀市安」とある。公田畠7町4段60歩・不輸租田1町5段からなり,不輸租田の内訳は左京職田5段・梵福寺田1町。荘田は十市郡東20条2里・21条1里・22条1里などにわたる合計10か坪に散在・分布した。この坪付は現在の橿原市十市町の南部,葛本町の西部にあたる。大治2年の雑役免防河人夫支配状案(京都大学所蔵東大寺文書/同前2113)に「十市五人」,平治元年の雑役免野宮柴垣支配符(東大寺文書/同前3022)に「十市庄四尺三斗」と,国役などを賦課されることがあった。なお鎌倉期,正治元年とみられる6月18日付僧隆玄書状(高山寺所蔵釈摩訶衍論々義草裏文書/鎌遺1058)に「十市庄より可沙汰進候也」と,当荘が見えている。③十市荘。興福寺雑役免(進官免)荘園。延久2年の雑役免帳に「十市庄卅町九反大」とある。公田畠14町2段120歩・不輸免田畠16町7段120歩からなる。不輸免田畠の内訳は本願田15町・左馬寮田8段・勧学院田4段120歩・右馬寮田5段。荘田は十市郡東20条2・3里を中心に,十市郡東19条2・3里・20条1・4里・21条1~4里・22条3里・23条3里,十市郡西21条1里にわたる合計47か坪に散在・分布した。この坪付は現在の橿原市十市町を中心に,田原本町味間付近から橿原市常盤町に至る一帯にあたる。④十市荘。興福寺十二大会料所。天文15年8月日付十市郷諸荘進官米注文(京大一乗院文書)に「十市庄領 中村進官入地三町三反〈伊地知被進由自庄被注進〉,同領 坊城進官九反七反切 反別三斗負」とある。雑役免十市荘の後身とみられ,興福寺目代が納所となって,興福寺十二大会・春日若宮祭などの用途を負担した。天正年間の春日若宮祭礼薪之神事料所注文(天理図書館所蔵文書)には「神願之料所庄々……十市庄……以上九ケ所 下代半竹料」と見える。⑤十市荘。興福寺仏聖料所。「寺社雑事記」文明14年閏7月23日条に「仏聖領ハ大和国三橋庄〈号仏聖〉……十市庄」と見え,興福寺別当の管掌する寺門領の1つであった。⑥十市荘。興福寺松南院領。「経覚私要鈔」宝徳3年9月23日条に「松南院領十市庄事,此間廿石ニ十市請申了」とある。国民十市遠清が請負代官となり年貢20石を請負ったが,有名無実となっていた。この後も院家使者が検見に下向,あるいは春日神人が督促に遣わされたが,年貢は滞りがちで,寛正2年には改めて遠清が年貢15石で請負っている(経覚私要鈔長禄2年9月14日・享徳2年2月8日・寛正2年5月12日・12月21日条)。「三箇院家抄」巻2には松南院負所の在所として「一反〈ハコツカ八斗 免八升,十市アケタノ西二丁ツユニアリ〉」と記す。なお戦国期の春日進官領納帳(天理図書館所蔵文書)に「十市領 合七斗」とある。⑦十市郷。室町期頃から奈良盆地中央部に広がる国民十市氏の勢力範囲を十市郷と呼称するようになった。郷域には十市氏居館のある十市荘を中心に十市郷西部から城下郡東南部・城上郡西部・山辺郡西南部に及び,現在の橿原市北部と田原本町域,天理市・桜井市の一部にわたる一帯に相当する(天文5年12月日付十市郷諸荘進官米納帳など/京大一乗院文書,年欠11月28日付十市郷神供料田請取日記/春日大社文書4)。「経覚私要鈔」寛正2年4月25日条に「十市遠清代官来之間,三目代訴申十市郷進官無沙汰事,先一年分急可致弁済……之由,厳密仰含了」,「寺社雑事記」文明3年11月20日条に「十市郷諸庄段銭無沙汰之間,此間種々問答」とあるのが早い所見で,郷内では十市氏が段銭賦課・徴収や興福寺進官米納入の実権を握っていた。国民十市氏は,至徳元年の長川流鏑馬日記に「十市殿」と見える春日若宮祭に流鏑馬頭役を勤仕する願主人の一員で,長谷川党の刀禰(盟主)であった。また大乗院門跡坊人で,室町期には門跡から三ケ井殿荘下司・給主職・小矢部荘下司職・楠本荘下司職・河合荘下司・給主職・曽我部荘下司・給主職を恩給されている(三箇院家抄1)。本姓は中原氏あるいは藤原氏・源氏であるともいうが未詳。古代の十市県主の末裔ともいわれる(橿原市史)。庶流に十市新賀氏・十市八田氏・十市木原氏などがある。南北朝期の貞和年間には十市新次郎入道が十市郡常葉荘・十市小垣内に賦課された興福寺段米を抑留しており(貞和3年2月日付興福寺段銭段米帳/春日大社文書4),永和年間には十市遠康が興起して寺領を脅かしたため,興福寺学侶・六方が発向したという(大乗院日記目録永和4年10月9日条)。翌年には幕府が遠康討伐の軍を大和に派遣している(花営三代記永和5年2月9日条/群書26)。応永13年にも十市氏は幕府軍の追討ちを被り,その所領は闕所地となって一時足利義満から興福寺に寄進された(寺社雑事記康正3年9月15日条)。次いで大和永享の乱では国民越智氏に与力したが,越智惣領の没落とともに楢原で自害して果てた(大乗院日記目録永享12年5月19日条)。室町中期までの十市氏は衆徒筒井氏と国民越智氏の2勢力に挟まれ,たびたび断絶するなど振るわなかった。嘉元2年家督を継いだ十市加賀寿丸(遠清)は勢力の拡張に努め,応仁・文明の乱では畠山政長与党の筒井氏方に属して,文明3年には山辺郡の楊本・岸田・福智堂・乙木・竹内などの在所を奪ったが,同11年3月には庶流の新賀・木原・八田氏ともども没落して東山内の小夫・小山戸方面に退去している(同前嘉吉2年3月15日条,寺社雑事記文明3年閏8月9日・同10日・11年3月9日条)。これにより十市郷も国民越智氏の支配下に置かれた(寺社雑事記文明11年3月16日条)。同年10月十市氏は東山内から出張して十市郷東部の知行を一時回復したものの,越智氏との合戦が繰り返され,明応6年に至ってようやく十市遠治が筒井順盛の大和進攻で古市澄胤・越智家栄らが敗北したのに乗じて在所に復帰した(同前文明11年10月15日・14年9月17日・15年2月13日・延徳元年8月22日・明応2年4月18日条など)。永正3年赤沢朝経の大和侵入を機に結ばれた大和国衆の盟約では越智・筒井・箸尾・布施とともに遠治も主導的役割を果たしている。しかしこの盟約は永続せず,しばらく筒井・越智両党が抗争,永正17年8月両派和睦に伴い遠治は排除されて,京都に出奔した。十市郷も再度越智氏に接収された(中臣祐維記永正17年8月・10月9日条/続南行雑録,春日社司祐維記大永元年8月16日・同29日条/大日料9‐14)。遠治の子息遠忠は書家・歌人としても著名で,三輪明神の法楽のために詠んだ「昔きくそのものゝふの道ならて法のためにもいる箭ありやと」は武士らしい歌である。また大和の文物に寄せた歌に「なかめやる花よりはなは咲にけり雲まに見へしをはつせの山」「よそにのみなかめなれぬる白雲の雪になり行かつらきの山」「世の中はふるの神杉すなをにて立さかゆへきすゑいのるかな」などがある(十市遠忠自歌合/群書13,十市遠忠百首/続群14下)。遠忠は国中・東山内の境に竜王山城を修築して,当時大和に勢力のあった信貴山城の木沢長政と対峙し,天文11年長政が河内高屋城で敗北するや,国中に進出して十市郷を回復した(享禄天文之記天文11年3月17日条/内閣大乗院文書)。この頃が十市氏の最盛期で,遠忠を継いだ遠勝は松永久秀制圧下の大和でかろうじて守成するに止まり,永禄11年には宇陀郡の秋山氏に押されて竜王山城を放棄,十市郷の村々を松永方の秋山・箸尾両氏に苅田放火される有様であった(多聞院日記永禄11年7月27日・9月26日・同27日条)。こののち遠勝が死去すると,十市氏家臣団は遠勝後室を奉じる親松永派と一族十市常陸介を筆頭とする親筒井派に分裂し(橿原市史),永禄12年12月筒井衆の十市城入りとともに親松永派の家臣らは今井,次いで楊本城に移っている(多聞院日記永禄12年12月10日条)。この紛争により,十市郷で十市氏に残されたのは常盤・葛本・味間・八条などのみとなり,大部分は越智・箸尾両氏に壟断されたという(同前元亀2年8月13日・9月23日条)。織田信長は十市氏の内紛を調停,天正3年4月朱印状を発して十市郷を3分割し,1つを信長家臣で大和を預かった塙九郎左衛門尉(直政),1つを松永に充て,残余を遠勝後室と十市常陸介で折半させたが(同前天正3年5月3日条),解決せず,翌4年3月には塙直政自身が十市城に入って事にあたった(同前天正4年3月22日条)。次いで同年5月に大和一国を預けられた筒井順慶は十市郷に使者を下して支配している(同前天正4年5月11日条)。同7年2月遠勝後室は布施次郎を養子として家督を継がせ,十市新二郎を名乗らせた(同前天正7年2月10日条)。新二郎は筒井家臣として活躍,のちに筒井定次に従って伊賀に移っている。「大和記」には大和四人衆の1人として十市氏を掲げ,知行6万石程とする(続群20下)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7400944 |





