檜隈(古代)

大和期から見える地名。①檜隈野。雄略朝に呉の使者を迎え,呉人を「檜隈野」に置いたので,当地を呉原と名付けたとある(雄略紀14年3月条)。呉原は現在の明日香村栗原が遺称地。栗原は当地の東南に隣接するので,檜隈は現在よりもかなり広い地域を示す地名であった。②檜隈。宣化天皇の宮伝承地。建小広国押楯命は「檜垌の廬入野宮」で天下を治めたとあり(古事記宣化段),都を「檜隈の廬入野」に遷し,宮号としたともある(宣化紀元年正月条)。慶雲4年の威奈大村墓誌(寧遺下)には「檜前五百野宮御宇天皇」,「阿波国風土記」逸文(万葉集註釈1)には「檜前伊富利野乃宮大八島国所知天皇」,「肥前国風土記」松浦郡鏡渡条には「檜隈廬入野宮御宇武少広国押楯天皇」と見える。宣化天皇の別名は「檜隈高田皇子」(継体紀元年3月癸酉条),「檜隈天皇」(崇峻即位前紀6月辛亥条),「檜垌天皇」(古事記欽明段)とされ,古くから当地に関係があったと考えられる。なお宣化天皇の名代で,宮号にちなむ伴造氏族として檜前舎人がいる。旧姓は造で,天武天皇12年に連姓を賜ったとある(天武紀12年9月丁未条)。「姓氏録」左京神別下に「檜前舎人連」として「火明命の十四世孫,波利那乃連公の後なり」とある。檜前舎人および檜前舎人部は,かつて東国に多く設定されたらしく,遠江・駿河・武蔵・上総の諸国にその名が見える(続紀宝亀2年3月辛酉条,天平10年駿河国正税帳/寧遺上,万葉集4413,続紀天平神護2年12月癸巳条など)。一方当地は王族の墓域でもある。まず欽明天皇は「檜隈坂合陵」に葬られたとされ(欽明紀32年9月条),「延喜式」諸陵寮に「檜隈坂合陵」として「磯城島金刺宮御宇欽明天皇,在大和国高市郡,兆域東西四町,南北四町,陵戸五烟」と見える。その後推古朝に皇太夫人堅塩媛を「檜隈大陵」に改葬し,軽の街で誄したとある(推古紀20年2月庚午条)。檜隈大陵とは堅塩媛が欽明天皇の妃であったことから(欽明紀2年3月条),欽明天皇の檜隈坂合陵を示すと考えられる。「砂礫を以て檜隈陵の上に葺く。則ち域外に土を積みて山を成す。仍りて氏毎に科せて,大柱を土の山の上に建てしむ」(推古紀28年10月条)の記載も同様か。これまで明日香村下平田にある全長138mの前方後円墳に比定されてきたが,橿原【かしはら】市五条野町・大軽町にまたがる見瀬丸山古墳とする見解もある。また皇極・孝徳両天皇の母,吉備姫王の墓は,「延喜式」諸陵寮に「檜隈墓」として「吉備姫王。在大和国高市郡檜隈陵域内。無守戸」と見える。なお吉備姫王は「檀弓岡」に埋葬されたとも伝えられる(皇極紀2年9月丁亥・乙未条)。墓域には現在猿石と呼ばれる石像が4体あり,坂合陵から近世に移されたと伝えられる。次は天武・持統合葬陵で,持統天皇元年に「皇太子,公卿・百寮人等并て諸国の司・国造及び百姓男女を率て,始めて大内陵を築く」と見える(持統紀2年10月壬子条)。翌年天武天皇を葬り(持統紀元年11月乙丑条),大宝3年には飛鳥岡で火葬された持統天皇が「大内山陵」に合葬された(続紀大宝3年12月癸酉・壬午条)。「延喜式」諸陵寮には「檜隈大内陵」として「飛鳥浄御原宮御宇天武天皇。在大和国高市郡。兆域東西五町。南北四町。陵戸五烟」,「同大内陵」として「藤原宮御宇持統天皇。合葬檜前大内陵。々戸更不重充」とある。現在明日香村野口にある八角古墳とされる。藤原定家の日記「明月記」や文暦2年3月における盗掘を調査した高山寺蔵の「阿不幾乃山陵記」には大内陵の内部が詳しく説明されている。なお欽明紀7年7月条には「大内丘の壑【たに】」が見える。最後は文武天皇で,文武天皇は慶雲4年に飛鳥岡で火葬され,「檜隈安古山陵」に葬られた(続紀慶雲4年11月丙午・甲寅条)。「延喜式」諸陵寮には「檜前安占岡上陵」として「藤原宮御宇文武天皇。在大和国高市郡。兆域東西三町。南北三町。陵戸五烟」とある。現在の明日香村栗原字塚穴に比定されるが,高松塚古墳北方の中尾山古墳とする説が近年有力になりつつある。これら檜前を冠した陵墓の位置比定によれば,その範囲は北方へも拡大することができる。さらに当地には倭漢氏が創建したと推定される檜隈寺が存在した。朱鳥元年「檜隈寺・軽寺・大窪寺に,各百戸を封す。三十年を限る」と見える(天武紀朱鳥元年8月己丑条)。室町期に成立したと見られる「清水寺縁起」(続群26下)によれば,同寺は「道興寺」とも称し,坂上氏が知行した寺の1つで,同氏の先祖阿智王が賜った土地に寺を建立したという。遺跡は地内の於美阿志神社境内にあり,堂1宇・塔1基の礎石を有し,天武・持統朝の瓦を出土する。③檜隈邑。欽明紀7年7月条に「倭国の今来郡言さく……川原民直宮は,檜隈邑の人なり」とある。「今来郡」は大和国高市郡の旧称。川原民直の川原は現在の明日香村川原を示し,民直の居住地と推定され,檜隈邑の範囲に含まれる。倭漢氏は応神朝に渡来した阿智使主の子孫を称する一族で,当地を本拠とした(応神紀20年9月条,続紀宝亀3年4月庚午条・延暦4年6月癸酉条,田邑麻呂伝記/群書5,清水寺縁起/続群26下など)。すでに雄略朝には天皇に寵愛された人物として「史部の身狭村主青・檜隈民使博徳等」の名が見える(雄略紀2年10月是月条)。檜前民使の氏姓は他にないが,阿智王が率いて渡来した7姓の漢人のうち,段姓を名乗った子孫に「民使主首」(坂上系図所引姓氏録逸文/続群7下),「民使首」(姓氏録山城国諸蕃)がいる。高市郡にある倭漢系諸氏の総称として「檜前忌寸」を用いることがあるので(続紀宝亀3年4月庚午・天平神護元年2月乙丑条),檜前民使もそれと類似の用法であると考えられる。倭漢系諸氏の中で檜前を冠する氏族もいくつかある。阿智王が率いて渡来した7姓の漢人のうち,多姓の子孫に「檜前調使」,高姓の子孫に「檜前村主」がいる(坂上系図所引姓氏録逸文/続群7下,姓氏録右京諸蕃上)。また阿智王の子孫に「檜前忌寸」(姓氏録摂津国諸蕃),阿智王の孫山木直の子孫に「檜前直」(坂上系図所引姓氏録逸文/続群7下)がいた。ただし檜前直は葛上郡を本貫とする。④檜前村。宝亀3年正四位下近衛員外中将坂上大忌寸苅田麻呂は檜前忌寸を大和国高市郡司へ任用することを請い,許されている。その理由として,彼らの先祖阿智使主が応神天皇の世に17県の人夫を率いて来帰したところ,天皇は詔して「高市郡檜前村」に居住させた。そのため高市郡内は檜前忌寸や17県の人夫が地に満ちて,他姓は10に1,2であったことを挙げている(続紀宝亀3年4月庚午条)。ちなみに大蔵氏系図(続群7下)によると,阿智使主らが「高市郡檜前村」に居住したのは孝徳朝で,「坂上系図別本」(同前)には「阿智使王」の4世孫「阿多倍王」は「孝徳天王」の時に「檜前村」を賜り居住したとある。⑤檜前郷。「和名抄」高市郡七郷の1つ。高山寺本は「比乃久万」,東急本は「比乃久末」と訓む。坂上系図(続群7下)阿智王条所引「姓氏録」右京諸蕃上坂上大宿禰条逸文によれば,応神朝に「天皇,其の来ける志を矜【あはれ】みたまひて,阿智王を号けて,使主と為したまふ。仍りて大和国檜前郡郷を賜りて之に居れり」とある。また室町期の「清水寺縁起」(続群26下)には檜前寺(道興寺)について「右大和国高市郡檜前郷。伴所者。先祖阿智王入朝時恩給地也。仍建立寺云々」と見える。「大和志」は現在の明日香村檜前に比定するが,郷域には少なくとも北部の御園・平田・野口,東部の栗原などを含めることができる。⑥檜前条。康平元年10月22日大和国竹林寺解案(東大寺文書/平遺911)に,寺領として「一寺廻高市郡〈南郷〉……檜前条二里十三坪一町」と見える。康和6年4月21日僧定秀公験紛失状案(東大寺文書/平遺1533)には「大和国高市郡南郷檜前条六里十九坪山田」とあり,当条は6里までが確認できる。高市郡南郷内にあることから,下ツ道より東方に比定され,里は北から南へ及んだとみられる。しかし条里の地割は実施されなかったらしく,遺存地割とは方位を異にする道路や畦畔が見られる。つまり条里地割は実施せずに,地図を作製するのみで,条里呼称は地図によって観念的につけられた可能性がある(条里復原図解説)。現在の明日香村檜前から南方へ1~6里が並ぶ。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7401883 |





