二見郷(中世)

平安末期から見える郷名。宇智郡豊井荘のうち。①豊井荘二見郷。東大寺領。二見南郷とも見え,平安末期には南北両郷に分かれていたらしい(東大寺文書安元3年5月16日付僧定覚送状/平遺3788)。仁安3年7月24日付豊井荘新苧注進状(東大寺文書/平遺3469)に「豊井御庄内二見・坂合部春料苧」とある。郷内には貞包・維勝・是守・安武ほかの住人がおり,食料を給されて苧を納入した。「二見郷田畠一町」は豊井荘預所の給田に充てられたが,このうち田5段の在所は真土条四里30坪・同35坪・同28坪にあった(東大寺文書仁安4年2月27日付二見坂合部郷預所給田畠注文/平遺3496)。このほか当郷からは麻・麦・笋・塩や雑紙・京殿紙などが奈良に送られている。また豊井荘公文僧定覚は当郷からの年貢送状で「抑国絹ハ田舎市ニハ一切不候,麦お令進候ハ,奈良辺尋可御候」と述べており,当郷付近に市場があったらしいが,絹などの高級品はなかったことがうかがわれる(東大寺文書嘉応2年6月10日付僧定覚麻送状/平遺3549,東大寺文書僧定覚送状/平遺3788~3793)。②豊井荘二見郷。一乗院門跡領。「簡要類聚鈔」第1に「豊井庄四ケ郷,大岡・二見・大鳥・坂合部」と見え,年貢として糸・綿・紅花・長講米などを負担した。文永11年11月日付藤原頼春売券(栄山寺文書/五條市史下)によれば「宇智郡豊井御庄二見郷之内〈字豊田前中坪〉」の田地1段が栄山寺薬師堂に売却されている。当郷内には大日寺領田と御霊大明神社領田畠5町2段余があった(馬場熙氏所蔵文書明徳4年10月10日付尾張守某安堵状・同年11月24日付同状/同前上)。南北朝期には豊井荘を構成する各郷が独立化したため,当郷も二見荘と称される場合があった。郷内には二見氏が蟠踞した。同氏は清和源氏。南北朝期には一貫して南朝方であった。延元2年(建武4年)二見弥徳丸が後醍醐天皇から美濃国大榑荘地頭職を功賞として給与されている(犬飼正氏所蔵文書延元2年5月24日付後醍醐天皇綸旨/同前)。このことから二見氏の本貫地は美濃国で,南朝に属して宇智郡に入部したものともいわれる。正平年間二見光遠(弥徳左衛門尉・左衛門大夫)は宇智郡内佐那手郷内所領・紀伊国布施屋郷地頭職を給与され,文中年間には和泉国久富名所領の管領も許された。光遠はこのほか,河内国讃良郡や宇智郡近内南荘内にも所領を有した(同前7月1日付刑部卿某奉書・正平6年10月3日付大判事某奉書・文中3年4月11日付長慶天皇綸旨・弘和元年12月13日付同綸旨・元中4年後5月8日付沙弥某奉書/同前)。これ以前,興国7年(貞和2年)「大和国二見庄」は兵部権少輔なる者の兵粮料所に充てられたが,まもなく光遠の兵粮料所となったらしい(同前興国7年4月7日付後村上天皇綸旨・11月14日付某奉書/同前)。光遠の嫡子とみられる光長は紀伊国静川荘領家職や和泉国召次領朝用分を宛行われているが,元中年間に死没したらしく,「大和国宇智郡三ケ庄内二見光長跡」が南朝から吉野郡天川郷弁才天社に寄進された(同前元中3年4月5日付長慶上皇院宣・同7年4月4日付宮内少輔某等連署施行状/同前,天川郷文書元中9年2月11日付後亀山天皇綸旨/大和古文書聚英)。この後光家・光門と続き,応永5年には光長が当郷の惣領主であった(大日寺文書応永5年12月18日付実銀田地寄進状/五條市史上)。南北朝合一後,応永2年宇智一郡は足利義満から一乗院門跡に付された。これにともない一乗院門跡では同氏を門跡坊人として,動乱期に退転した当郷を回復しようとした。寛正5年二見氏は郡内の宇野荘恒留名の田地作分職(作職・加地子得分権)をめぐって大乗院門跡坊人宇野氏と相論している。当時国人らはさかんに田地を買い集めていたから,当郷にも宇野氏が作職を持つ田地が混在していたという(寺社雑事記寛正5年6月2日条)。応仁・文明の乱前後河内国では畠山義就と畠山政長が対抗していたが,二見氏は義就に味方し,義就の跡取り義豊の呼びかけに応じ河内に出陣したらしい(太飼正氏所蔵文書6月27日付義豊書状/五條市史上)。次いで永正年間頃二見源七は義豊の子義英に属し,河内の鞆呂岐で戦死,源七子息松王は義英の感状をうけた。またこの頃,二見左衛門大夫(松王か)は義英の子息在氏から坂合部郷内の所領を宛行われている(同前2月20日付義英書状・8月晦日付在氏書状/同前)。天文初年には河内半国守護在氏を擁立して勢力を振るった河内守護代木沢浮泛(長政)に属し,崎山(栄山)・今井・別所・島野・松井ら宇智郡内の地侍らを率いて出陣している(同前9月27日付木沢浮泛書状/同前)。永禄3年三好長慶が守護畠山高政を没落させて,河内を制圧した。そこで永禄末年には二見氏一族は河内高屋城主三好康長の麾下にあったが(同前7月4日付三好康長書状/同前),織田信長の畿内経営とともに宇智郡に雌伏を余儀なくされたらしい。二見氏は反信長方の高野山と結んで郡内に余勢を保ち,天正8年には信長方の宇智郡坂合部兵部大夫の城を,一族の二見密蔵院が攻略している(同前8月4日付金剛峰寺惣分沙汰所一臈坊書状/同前)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7402095 |