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見瀬村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。高市郡のうち。高取藩領。村高は,「慶長郷帳」では三瀬村と見え687石,「寛文郷帳」でも同様に見え690石余,「元禄郷帳」ともに690石余,「天保郷帳」691石余。「大和志」に見える属邑2のうち,1つは岸垣内。慶応3年の家数191(うち本家126)。明治3年の家職人取調名前書上帳によると,戸数202,うち造酒屋并油屋1・織屋21・豆腐屋1・綿打屋1・大工職1・桶屋職1・鍛冶屋1・瓦屋1・提灯屋1・焼接屋1・紺屋4・米屋2・質屋2・仲買屋2・道具屋3・小間物屋2・蝋燭屋1・荒物屋2・青物屋1・薬種屋1・膳飯屋2・煙草屋1(橿原市史)。鎮守は天満天神(現牟佐坐神社)と豊明宮と称された八幡宮(現八幡神社),八王子社。天満天神は春日大明神とも称され,「大和志」では式内社に比定されている。寺院は真言宗安養寺・浄土宗知恩院末阿弥陀寺と庵室・浄土真宗本願寺派福栄寺と称名寺。阿弥陀寺は天平年間行基菩薩の開基と伝えられ,室町期後半に乗蓮社一誉によって再興(蓮門精舎旧詞)。また見瀬・石川・大軽・鳥屋・五条野・久米6か村の郷墓を管理する墓寺として善導寺があった(大和国三昧明細帳)。「西国三十三所名所図会」には益田池碑跡などを載せる。幕末~明治初年に市川三郎・島田忠九郎・森本静によって3つの寺子屋が開設された(日本教育史資料)。慶応3年の宗門改人別寄帳によれば家数191うち家持126・借家65(見瀬区有文書)。明治7年には安養寺と浄土宗庵室が無住・無檀のため廃寺(旧奈良県廃寺参考)。同15年頃の戸数195・人口959(男478・女481),馬1,田43町余・畑28町余,物産は大和飛白2,600匹など(町村誌集)。同16年には見瀬・大軽・石川・五条野4か村共立の見瀬小学校開校(小学校沿革史)。同17年の主産物は米・裸麦・甘薯・藍葉・茶・葉煙草など(農産物取調表)。同22年白橿村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7402376