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三輪(古代)


 大和期から見える地名。①三輪。崇神朝に意富多多泥古命を神主とし,御諸山で「意富美和の大神」を祀ったとある(古事記崇神段)。一方高橋邑の人活日を「大神の掌酒」とし,大田田根子に「大神」を祀らせたともあり,「味酒三輪の殿の朝門にも出でて行かな三輪の殿門を」「味酒三輪の殿の朝門にも押し開かね三輪の殿門を」と詠まれる(崇神紀8年4月乙卯条・同12月乙卯条)。三輪の大神とは大物主神のことで,大田田根子はその大物主神と活玉依媛との子で神の御子と称された。大物主神は正体を隠して活玉依媛のもとに通っていたが,媛は大田田根子を宿した時訪れる夫の素姓を怪しみ,その衣に麻糸を通した針を刺し明朝確かめると,麻糸は戸の鉤穴から抜け出て「三輪山」の神の社で行き止まりになり,夫が三輪神(大物主神)と知ることができた。その時手元に麻糸が三勾【みわ】残っていたためこの地を美和と称するようになったという有名な三輪山伝説である(古事記崇神段)。大田田根子は三輪(神)君の祖と伝えられる。三輪君は大三輪にもつくり,天武天皇13年に朝臣姓を賜ってからは大神を称した(天武紀13年11月朔条)。その後神護景雲2年に大神引田公,大神私部公,大神波多公ら20人に大神朝臣の姓が与えられ(続紀神護景雲2年2月壬午条),斉衡元年には神直が,貞観4年には真神田朝臣がそれぞれ大神朝臣の姓を与えられている(文徳実録斉衡元年10月癸酉条・三代実録貞観4年3月朔条)。神直と真神田朝臣はいずれも大田田根子の後裔を称し,大神楉田朝臣や大神石朝臣らも大神朝臣と同祖という(三代実録貞観2年12月29日条・仁和3年3月朔条)。「姓氏録」大和国神別の大神朝臣条には大国主神の後裔とあり,「古事記」と同様の三輪山伝説が見える。異なるのは大国主神と三島溝杭耳の女,玉櫛姫との結婚になっている点と,茅渟県の陶邑を経て大和国の真穂の御諸山に至ったとする点である。ちなみに事代主神が玉櫛媛と結んで生んだ子(一説に美和の大物主と勢夜陀多良比売の子)は神武天皇の皇后になったとも伝承され(神武即位前紀庚申年8月戊辰条・古事記神武段),これと「古事記」の三輪山伝説とが混交して成立したと考えられる。なお履中天皇の子で雄略天皇により兄市辺押磐皇子を殺された御馬皇子は「三輪君身狭」を頼って逃れる途中「三輪の磐井の側」で捕らわれたが,皇子は刑死する時「磐井」は百姓のみが飲め王は飲めない井戸であると述べ雄略を呪ったという(雄略即位前紀)。磐井は現在の桜井市岩坂の岩坂井に比定される(大和志)。また大国主神については,大物主神・大己貴命と同神であり,さらに大己貴神の幸魂奇魂は日本国の三諸山に住むことを希望しそこに宮を作り住んだが,これが「大三輪神」で,この神の子を大三輪君とする伝承もある(神代紀第8段一書第6)。大己貴命の和魂を八咫の鏡に取付けて,倭の大物主櫛玉命の名を賞賛して「大御和の神奈備」に鎮祭し,皇宮の近き守りとしたともある(延喜式出雲国造神賀詞)。「延喜式」神名上の城上郡35座のうちに「大神大物主神社」が見え,現在の桜井市三輪に鎮座する。天平2年の大倭国正税帳(正倉院文書/寧遺上)城上郡条によると「大神神戸」の租穀4,475束7把のうち,祭神料36束・神嘗酒料100束・神田1町8段種稲36束・祝部3人食料284束4把の計456束4把が用いられたとある。また「大神神」に対しては天平神護元年9月8日符により大和45戸・摂津25戸・遠江10戸・美濃50戸・長門30戸の計160戸が与えられ,本封以外に大和5戸・摂津5戸の計10戸も与えられた(大同元年牒/新抄格勅符抄)。同社は相嘗祭・祈雨神祭にあずかり(延喜式四時祭・臨時祭),狭井神とともに鎮花祭の祭事を行った(同前四時祭)。鎮花祭とは,春に花が飛散する時疫神が分散し病を起こすので,それを鎮圧するために行う祭とされる(令義解神祇令季春鎮花祭条)。狭井神は大神神の荒御霊であるという(令集解神祇令季春鎮花祭条所引釈説)。延暦20年にはこの祭礼を闕怠することがあれば中秡料物22種を課すことになった(延暦20年5月14日太政官符/三代格1)。天平9年「大神社」などに新羅無礼の状を報告した(続紀天平9年4月朔条)。嘉祥3年「大神大物主神」に正三位が授けられ(文徳実録嘉祥3年10月辛亥条),仁寿2年に従二位(同前仁寿2年12月乙亥条),貞観元年に従二位勲二等から従一位,さらに正一位に達した(三代実録貞観元年正月27日条・同2月朔条)。同年右兵庫頭藤原四時を「大神社使」とし,神宝幣帛を奉り,風雨祈願のための使者も派遣された(同前7月14日条・同9月8日条)。正暦5年大神社に中臣氏人を使者として派遣,宣命を給わった(本朝世紀正暦5年4月27日条)。長保2年には大神社宝殿鳴動が起こっている(紀略長保2年6月16日条)。なお「万葉集」には「三諸の神」(156・1377・1770)や「三輪の祝」(712・1517)が詠まれる。それによると,同社は初瀬川が帯のようにめぐる三輪山を御神体とし,神職らは神杉を大切に守っていた。また「三輪の檜原」(1118・1119)も詠まれる。三輪山北西部に舌状に突出した台地に比定され,東端には大神神社の摂社檜原神社が鎮座する。ただし「巻向の檜原」(1092・1813・2314)や「泊瀬の檜原」(1095)も見え,3者がどのような地理関係となるのかは明らかでない。現在の桜井市三輪付近に比定される。②大神郷。「和名抄」城上郡八郷の1つ。高山寺本・東急本は「於保无和」,刊本は「於保無知」と訓む。「神」字を「無知」と訓むのは「書紀」が「貴」字を「無知」と訓むのと同義で,地名で「神」字を無知と訓む例は多いとされるが(地名辞書),「無知」の知は和の誤りとする説もある(古事記伝・桜井市史下)。大神の大はミワ神に対する敬称的美辞。寛平3年4月19日大神郷長解写(正親町伯爵旧蔵文書/平遺178)に「大神郷長解 申常地売買地立券文事」と見え,城上郡22条1里千代里21・22坪内の3段120歩が直頴200束により伊勢朝臣惟茂から唐招提寺に売買されている。この四至記載によると東西は私領で,北は公田,南限は「椋橋町」とある。千代里は現在の桜井市東新堂の北西,同市大福の北部に比定されている(条里復原図)。なお「今昔物語」巻20第41話には「霊異記」上巻第25話の説話に基づいて中納言大神高市麿の忠臣ぶりが記されるが,それによると彼は大和国城上郡三輪郷に居住し,自己の家を寺となし三輪寺と称したという。郷域は現在の桜井市三輪を中心とし,東新堂や東田などを含むかなり広域であったと推定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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