有田郡

慶長5年入国した浅野氏は翌6年に紀伊国総検地を実施。この慶長検地の結果を集約した慶長検地高目録によれば,村数128で村高合計4万2,045石余である。中世の荘名が浅野氏の時代にも残っており,広・湯浅・宮崎・下保田・宮原・糸我・田殿・藤並・南石垣・北石垣・山保田の11荘名がそれぞれの村に付せられていた。このうち山保田が阿氐河の改名である以外は中世以来の荘名である。だが荘名は地域の表示にすぎず,行政区割は大庄屋が統括する組がにない,徳川氏入国以降は,山保田組,石垣組,田殿組(のち藤並組と改称),湯浅組,宮原組の5組に編成された。元禄年間の本田畑高からみれば,山保田組4,900石余,石垣組9,171石余,藤並組9,459石余,湯浅組1万502石余,宮原組9,075石余で,山間部の山保田組以外の4組は平地部にあり1万石前後に編成されている。なお「元禄郷帳」では村数146,高4万2,574石余,「天保郷帳」では137か村,4万7,308石余。「元禄郷帳」は枝郷も1村あつかいしているため,「天保郷帳」を慶長検地高目録と比較すれば,村数で11か村,全村高で5,262石余の増加である。17世紀初頭,有田川河口左岸に雑賀屋新田が開発された小豆島【あずしま】村では288石余から765石にと村高が2.7倍にも増加しており,吉原村でも大野原新田が開発され,正徳5年までに村高が409石余から700石余へと1.7倍増加している。これらのように有田川中・下流域では,かなり大がかりな新田開発がおこなわれた所もあったが,むしろ当郡の特色は川沿いや山すそなどの狭い平坦地の開墾や山腹のミカン畑開墾などにある。文化5年に書写された諸色覚帳写(保田家文書/県史近世3)は,18世紀初期ごろの実態を記しており,村数は137か村で「天保郷帳」と同数,家数9,957軒うち本役5,068・半役1,806・無役3,083,馬数930,牛数1,971,川船・渡船85艘,海船636艘うち廻船222・上荷瀬取船20・漁船387・肥し船7,網数130張うち八田網91・まかせ網10・地引網15・名吉魬網6・四艘張網2・持網5・手繰網1,神社数362,寺数188,庵数2,堂数98。用水堰は有田川の下流域に多く,庄村井懸りが8か村で高2,329石余,宮原井懸りが8か村で高2,146石余,星尾井懸りが7か村で高2,760石余,井ノ口井懸りが3か村で高42石余,糸我井懸りが2か村で高668石余,笠島井懸りが3か村で高926石余と,大小6か所あり,池数は312,山間部および有田川水系から離れた地域に多く,伝馬所は熊野街道に沿った宮原村・湯浅村・井関村の3か所に設置され,各馬20疋が常時置かれていた。またほぼ同時期の元禄12年2月の紀州御領分各所之記録(和中家文書)で眺めると以下のようである。まず土地柄は上所・下所が入りまじり紀州では中位,田が多く,畑は少ないが,米・麦両作ともみのりはよい。その作柄は米が中上,麦は中。年により少し水損・旱損個所が出るが,まず大規模な被害はおこらないという。山間部は山稼ぎも多く,また里方にも柴刈場があり,蜜柑栽培も盛んで江戸送りをしている。海上稼ぎや川船稼ぎを行う者も見られる。総じて「百姓家居人柄宜敷,心立も大形能所御座候」と見える。また米・麦のほか木綿も栽培。粟・黍・稗・大豆・小豆・蕎麦・芋・茶・大根などが山間部の村々で栽培され,柿・炭・伐木・木地挽・小材木・椎茸・クズ・ゼンマイ・ワラビなどの山産物のほか,保田紙のすき出しや鮎漁もおこなわれている。浦方では漁業がさかんで,あわせて矢櫃のアワビ,宮崎ノリなど磯物の採集もおこなわれている。また木綿・縞木綿を多く織り出し,漁網のすき出しもおこなわれていた。これらは,農民の農間余業であるが,湯浅・広方面では子供・女子が従事したという。ほぼ同時期,17世紀後半ごろから有田川下流域は江戸市場と結びついて紀州ミカンの特産地を形成していく。紀州蜜柑伝来記(県立図書館蔵)によると,有田川流域の各村々では,村単位で蜜柑組株を形成し,藩の蜜柑方役所の配下に入っていた。蜜柑方役所は有田川河口の北湊村にあり,各村々からミカンを満載した艜が有田川を下り,北湊で江戸積み廻船へ積みかえられた。18世紀に入り,市場の拡張とともに生産地もふえ,組株も30組を超えた。このほか有田川河口の箕島・北湊地区には,17世紀後半から黒江産の折敷類を仕入れて九州方面に販売する商人がいた。彼らは九州で伊万里焼の名声を知り,それを仕入れて江戸方面で販売することを着想した。宮崎陶器商人と呼ばれた彼らは,当初は船中で陶器を売ったり,川端に船をつなぎ,川岸に商品を並べた小規模なものであったが,次第に商人もふえてくると江戸の陶器業者と対立していった。享保6年江戸市中での直売が禁止されると,市場を江戸近郷の関東地方へ求め,幕末には中山道筋・日光街道筋・水戸街道筋・甲州街道筋の宿場へ行商範囲をひろげていた。また元文2年3月,田中善吉が薩摩国から櫨の種子を持ち帰り,北湊の荒地に播種,苗を育て良質の蝋を採取することに成功し,藩の殖産政策によって藩内全域に栽培を広げた。天保年間には農村工業としての製蝋業にまで発展し,天保7年には有田郡蝋燭仲間が結成され,江戸市場へ直結した。やがて嘉永6年には海部・有田・日高3郡で仲間加入者が47人までに増えている。有田川下流域と並ぶ,当郡のもう一方の拠点は湯浅・広地域の湯浅湾沿岸である。慶長検地高目録には,湯浅と広はともに「町」と記されており,中世末期には在町を形成し,近世初期においても他の村々と異なった様相を示していた。この湯浅湾岸の湯浅・広・栖原の各漁村は17世紀初頭に関東漁場へ多くの鰯網漁民を送り出していた(みよばなし)。彼らのなかには,元和末年ごろ房総に渡った栖原角兵衛や,万治元年に下総外川浦を開いた広浦の崎山次郎右衛門のような漁業者も出ていた。遠隔地漁業の盛況は湯浅・広両浦の繁栄をもたらし,同地からの関東漁場への出漁は伝統的に続けられ,享保19年には外房天津小湊へ栖原浦から角兵衛ら3張の鰯網が107人の漁夫を,湯浅浦から市郎右衛門が35人の漁夫を連れて出漁している(天津小湊善覚寺所蔵文書)。また宝暦4年の外川浦網方商人御宗門御改印形帳には広浦77人,湯浅浦46人の漁民が記されている(銚子木国会史)。醤油の醸造も盛況をきわめ,文化12年には湯浅33軒・広8軒・栖原1軒の醤油屋があった(取為替証文/県史近世3)。醸造業を主体とする湯浅・広地域のマニュファクチュアの形成は史料不足のため解明されていないが,幕末,湯浅浦に心学の有信舎,広浦に耐久舎が創立されているのをみても,この時期の当郡は,商工業の発展による商人の台頭を抜きにして考えられないであろう。明治2年版籍奉還により有田民政局が湯浅浦道町に開設され郡政一般を処理したが,その管轄するところは,郡内に設置されていた田辺領(歓喜寺・山田)と新宮領(星尾・東丹生図【ひがしにうのず】・中)を除く,いわゆる本藩領に限られた。同4年廃藩置県により,田辺領は田辺県,新宮領は新宮県を経て和歌山県に所属し,郡内全域が和歌山県の所管となった。当郡は第5大区と称し,5小区に分けられた。第1小区は旧宮原組21か村,第2小区は旧湯浅組23か村,第3小区は旧田殿組24か村と旧石垣組の5か村,第4小区は旧石垣組の37か村,第5小区は旧山保田組26か村であった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7403193 |





