浦神村(近世)

江戸期~明治22年の村名。牟婁【むろ】郡のうち。和歌山藩新宮領与力知。太田組に所属。村高は,慶長検地高目録では91石余,「天保郷帳」138石余,「旧高旧領」143石余。なお寛永年間ごろの「紀南郷導記」によれば,村高92石余,家数50軒。正保3年には146石余(那智勝浦町史)。明和~寛政年間ごろの「紀州新宮領分見聞記」によれば,村高92石余,家数53軒(続熊野の史料)。文政元年の郷帳によれば,家数78軒,人数665(那智勝浦町史)。新宮領内の二分口役所の書上によれば,深き入江にして廻船の多い湊であり,諸漁船12艘・同小舟32艘,細魚網6帖・えさあみ8帖,いさは1艘などがあった(同前)。そのため当浦は,慶長16年8月16日の加子米究帳(栗本家文書)では水主役数26(先高22)・代納升高31石余が,また御領分加子米高帳(田中家文書)によれば江戸初期は水主米高17石が課せられていた。当村は湾を隔てて南北に分かれ,北側の熊野街道(大辺路【おおへち】)沿いを本村といい,南岸を向地といったという。神社は産土神の塩釜神社。寺院は臨済宗海蔵寺。明治4年新宮県を経て和歌山県に所属。同6年には戸数158,男415・女387。同7年管轄表によれば,戸数160,うち農業19・商業31・雑業105など,船数49であった。同12年東牟婁郡に属し,同22年下里村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7403536 |